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アジア戦略研究会(議員連盟)第3回会合
2006年5月11日 16:00〜

先輩の方々と違って丁度、私は日中戦争(1937年)と同じ年ですから、勝っていた時代の事を全く知りません。ですから、その後のこの国の歩みの中から感じた事、そしていつ何処で日本が第二次世界大戦へと道を歩んでしまったんだろうか?そしてその傷跡をなぜまだ消しきれていないのだろうか?今日はそんな事を皆さんにも一緒に考えてもらいたい。そのように思いながらここに来ました。

丁度、先日メキシコで(開催された)第4回世界水フォーラム(3月12日〜24日)終了後直ぐに、日中関係7団体の代表の一人として北京(3月29日〜4月1日)へ招かれまして、トランクの中身を入れ替えて直ぐ北京へ飛びこみました。

胡錦濤国家主席から色々な話がでた。それに対して私は自然な思いを語ったつもりでしたが、私のメールの書き込みの中には売国奴・国賊といった言葉まで書かれていた。 何故そういう事になったのかな??と考えさせられました。それは胡主席の言われた事を伝える、その言葉がいけなかったのかな?しかし折角呼ばれて話された事を伝えないのは良くないですから、そしてその時に胡錦濤さんが中国としての思いを述べられ、私が申し上げた事は非常に申し訳ないが、総理の時に私も靖国に行った。その途端に唐カセン外交部長(当時)ジョトンシン(駐日中国大使)が、すっ飛んできて大激論になりました。その時もA級戦犯・A級戦犯と言われたが、私が会いに行ったのは、私の母の兄、私の従兄、私の小学校の担任の先生は一学期だけ受け持っていただいたところで出征されました。私は駅まで旗を持って送りに行った。そして「おい靖国の森に帰ってくるから来てくれよ」と言われたから、私はその約束を守っている。自分の心の問題である。 これはなかなか中国側も理解されなかったし、私も中国側の考えを理解は出来なかった。 考え方の違いはこういうものかなとしみじみと感じました。

一月末アメリカ(サンフランシスコ)のスタンフォード大学で講演を頼まれ、久しぶりにスタンフォードを訪れました。元駐日米国大使のアマコストさんが総長、沖縄普天間で議論したペリー(元国防長官)がスタンフォードの安全保障関係の主任研究員。色んな議論をしましたが、ビックリしたのは殆んどの質問がこの頃、日本に対しての質問ではなくて、中国に対して(日本は)どう思っているか、どうなっているか?どう付き合うか?であった。その中に靖国問題も出てきました。本当に良くここまでPRをしたものだなとしみじみと思いましたよ。

その時も、かつての日本が何処で道を間違えたか?自分なりに随分考えさせられました。 そしていくら考えても日清戦争・日露戦争というものを、あの時代に日本が生きていくために、自国を守るために闘わなければならない、戦争であるという気持ちが私にはあります。その想いが、本当は靖国神社はご承知のとおり招魂社という名前で維新功業の途中に不名(名無し)で倒れた人たちが祀られたものであります。ご祭神は第二次世界大戦に参加した戦没者だけではないと言う事をもう一度日本人も思い出さなければならない。その上で相手の気持ちを考えなければならないと改めて考えさせられました。

総理の時、シンガポールでこんな事件にぶつかりました。丁度ペルー事件の最中でしたから、(シンガポールへの)公式訪問の約束をしていましたからその約束をはたす為に(シンガポールへ)行きました。その直前になってシンガポール側から、「血債の塔」という、シンガポールから日本軍が引き上げるときに大量に殺した華僑の人々に対する慰霊碑があります。私も一度行った事があるのですが、日本の総理大臣としては村山総理が初めて参拝をされた。ゴーチョクトン首相から、お前も時間を割いて参拝をしてもらえれば、非常にシンガポールとして歓迎の度合いが増すんだが・・・と言われ、参れと言うのですから、良いですよと言った。ただし私はもう一つ行きたい所があると言いました。それはBC級戦犯で死刑になられた人々のお墓。殆んどこの頃、参ってくださる人がいない。

BC級戦犯のお墓に、総理として行きたいと言ったら大騒動になった。最終的にゴーチョクトンとリークヮンユーとが話をし、最初からこういう事を申し入れなかった事にしてくれ。そしてお前もBC級戦犯のところへ行くとは言わないでくれと言われた。時間が無かったのでそこでそれ以上問題にはしませんでしたが・・・。

決して彼等(シンガポール国民)は第二次世界大戦中の日本の事を忘れてはいません。そしてつい最近、そのシンガポールは、ブキテマ高地という日本軍がシンガポールを攻める時に非常に激しい戦いが行われた場所の一角に山下奉文大将とパーシバル将軍降伏の場面をメインに展示した記念館を半年前に新たにつくりました。これはうっかりするとBC級戦犯のお墓に参りたいと言った事が、余計な事を思い出させてしまったかな?と実は私は内心思いました。しかしこれはシンガポールだけではありません。私は小泉総理の批判をするわけではございませんが、靖国の問題で正面きって確かにYES/NOと言っているのは中国・韓国だけです。スタンフォード(大学)での質問の中でも、シンガポールでのそういう行動が、何も日本に貸しがあったわけではないが、今になって急にパーシバルそして山下の降伏の風景を踏みにじるようにした記念館が造られているぐらい、忘れられていない事を我々はもう一度思い出さなければならないと思います。 相手の記憶のどこかにその様な思いがあって、その上で黙って付き合ってくれているところが在る。実はこれは色んな時に感じさせられてきました。逆に総理の時の肩書きで、ひっかかった事はシンガポールの時ぐらいでした。

しかし私は割合に若い時から遺骨収集で色んな所に行かせていただきました。 その中で、その地域にいた日本人の、あるいはその地域にいた日本人の司令官の行動一つで、どんな思い出がその地域に残っているか、否応無しに直面させられてきました。

中には遠いパプアニューギニアでマーカムポイントと言うところ相当数(二個中隊)ぐらいが全滅した場所です。遺骨収集に行こうとしたら当然それから二代(世代)ぐらい変っているが、その時の酋長さんに我々は立たされ、「今まで何していた?」と怒られた。 オーストラリア軍は戦後直後(遺骨収集)に来た。米軍は二年後に来た。お前ら20何年どの面、さげて来た?(私は)何でおこられるのか?初めて許可が出て入ったのにと思っていたのですが・・・

実はその中隊長は素敵な人で、谷川まで、女性がいちいち降りて水をくまなくてはならない地形のところにあった住居に、上流から樋のようなもので水の流れを作って部落の中に水を引き込めばその様な骨の折れる水汲みをする必要はないと教え、ヤシの実を手に入る物を全部食べるのではなくて、植えると段々ヤシがそこに生えるという事を考えてくれ、そして今では考えられない変な場所に素敵なヤシの美しい林があり、そこ一本だけ周りに柵が作ってあり、中隊長お手植ヤシがある。この実だけはタブーで誰も飲んではいけない。全部この実は埋めるんだ。だからその辺りは立派なヤシ畑になっていました。その冷えてないヤシの実を飲まされて、美味しいものだとは思いませんでしたが、泣けて困りました。そんな素晴らしい場所もありました。

しかし本当に残虐な日本軍の思い出だけが残っている地域も、残念ながら各地にあるのも事実です。そして戦後50周年の間にかつて日本軍が戦った各地で本当に沢山の慰霊碑を作りました。今その中で管理がいき届いている慰霊碑は一割もありません。それこそ皆様も歌で名前をお聞きになった方もいらっしゃるかとは思いますが、モンテンルパという場所、ここでもBC級戦犯が死刑になりました。モンテンルパの構内にお墓がありました。戦後50周年の時点で、訪れる(これは遺族が年を取られている事もありますが)人が殆んどなくなってしまった。

阿部参議院議員(厚生大臣当時の秘書官)もいらっしゃいますが阿部さんと苦労してフィリピンのカリラヤと言うところで日本軍・米軍・フィリピン軍合同の慰霊碑を作りました。そこである程度の面積の墓地を貰い、私はモンテンルパの慰霊碑をそこに全部移しました。そこならば訪れる人の慰霊碑に関して、少なくとも大使館の諸君は行ってくれます。そしてその様な訪れる人のない慰霊碑がドンドン増えていっている事を忘れないでいただきたい。

そして本当にその昭和20年8月15日までの足どりに何でなったんだろう? 私には本を読むしか方法がありませんでしたから、色んな本を読んで見ましたが、おそらく一番良く出来ている本は児島 襄の「平和の失速」が一番まとまっているのではないかなと思います。丁度、第一次世界大戦が始まったとき、当然日英同盟が残っていた時期、日本は日英同盟を口実と言う言い方は良くないが、口実として第一次世界大戦の中に参戦している。
南方諸島、青島、コウ州湾等、ドイツの租借地を占領し、中国に帰さず、ドイツから自分のものに取り替えてしまった。それがどんなプロセスだったのか。これは孫文の伝記なんかを読んでみても、裏切られた思いがちょくちょく出てきますが・・・。俗に言う「対華21か条要求」という、第一次世界大戦中ドイツの租借地を日本が占領し、当時の中華民国に突きつけた「21カ条の要求」。これはご存知の方も多いかもしれませんが、もしお互いが占領されてこういう要求を突きつけられていたら、おそらく我々も黙っていなかったでしょうね。当時の中国で反日の火が燃え始め、初めは小さな火だったかもしれないが、大きな火になって、しかも必ずしも日英同盟でイギリスが参戦してくれとは頼んでいなかった。伊藤正徳氏の「軍閥興亡史」や、その一連の歴史作品、あるいは児島 襄の「昭和天皇」「平和の失速」その辺が書き込まれているのがこれらだと思います。

要するにイギリスとしては日本は火事場泥棒であんまり稼いで欲しくない。むしろアジアの方でドイツの軍艦が暴れたりしないように海を見張ってくれればいい、途中で足りなくなって駆逐艦隊を大西洋まで派遣することになりましたが、その様に考えてみると第一次世界大戦の途中どこかで日英同盟と言うものを使って第一次世界対戦の中に入って行き、そこで、火事場泥棒が出来ると気づいた人がいる。そして日本政府高官の中では一番やりそうな山県有朋などが一生懸命反対している。むしろ当時の外務大臣の威厳が強くてドンドンドンドン突っ込んでいく様子がある。
今、アジアあるいはユーラシア・中東等まで考えて日本が一番必要なものは相手の立場に自分を置いて考える事が一番大事なんではないでしょうか?
私はシドニーで日本の潜水艦の艦砲射撃でとても怖い思いをしたという老婦に怨みつらみを言われたことがありました。「あそこにいる新婚旅行の人たちはだれも知らないのよね、こんな事があった事は・・・」それは知りません。私が子どもの時に、雑音交じりのラジオでようやく聞いたぐらいですから、殆んどの方々が知っているわけがありません。

しかしそういう思い出は、フィリピンにもインドネシアにも、そしてアジア一円にも残っている。そしてその慰霊碑を今もって大事に守ってくれているのは実は現地の人たちなんです。例えばペリリュ−(パラオ諸島)なんて日本軍がひどい戦いをして殆んど全滅に近かった島です。ペリリューの墓地へ私は十数年ぶりで一昨年の正月に久しぶりに行ってきましたが、(アジア太平洋環境開発会議、通称APFED)恥ずかしくなるぐらい綺麗に地元の人々が手入れをしてくれていました。私は自分の家の墓をあのように綺麗にしてきたかな?と少し恥ずかしくなりましたが・・・そしてそういう現地の人々の思いを受け止めてあげてくれたら、それだけでも随分違うのではないか。

そしてその人たちが忘れた顔をしてくれている第二次世界大戦にまつわる思い出を少しでも理解してくれていたら日本のアジア戦略が変ってくるのではないかとしみじみ感じさせられる。そして現在、残念ながら完全にアメリカはじめ世界の関心は、一時非常に強かった日本を去って、中国にシフトし、日本が出てくるのは、その日本と中国がどのように付き合うのか?そこに集約されている事を是非ご確認いただきたいと思います。
そして残念ながら我々が中国と言うものを排除する事はできないし、忘れられません。

まったく違う話しだが国連のアナンにお願いをして国連「水と衛生に関する諮問委員会」の議長をしているが、そこに中国の代表を一人入れてくれと、やっと説得して中国側も了解しメンバーを今年2月のベルリン会合から正式に送る事を決めてくれました。中国は中国なりに真剣に選んでくれて精華大学で胡主席の同級生である汪部長(水利部長)を送ってくれた。

今、地球上の問題の中で、色んな資源が不足してきて大きな騒ぎをあちらこちらにおとしていますが、本質的に実は一番貴重な資源は水です。そして水を議論しようとすれば複数の国を流れる水をどうのようにお互いに共用し、自分だけで使い切るのではない、そういうものをつくらなくてはならない。実は人間が今そういうルールを形なりにも作っているのはナイルだけでして、ナイル川流域国会合と言うものが一応エジプトを中心に動いていますが、これでも万全ではありません。アジアでよくメコンデルタが問題になり、メコンの水をどうにかしなければならないと言う話が出ますが、実はメコンも水源は中国なんです。水源を持っている中国を入れないで、流域国会合といくら言っても、あるいはアメリカがメコンデルタは大事だといってもぜんぜん進まない。

だとすれば我々いったい中国・正確にはロシア・モンゴル・カナダもありますがシベリアのツンドラ地帯が段々溶け出していますので、本当は中国・ロシアと2つを意識しなければならない。我々(日本)にいったい武器として使えるものは何があるでしょうか。 私には(日本が)資源として戦える材料は何も思い当たりません。現時点では特許の数が中国よりは多いがインドには負けています。ロシアは調べていないが・・・ロシアもおそらく相当数の特許を抑えたでしょう。我々は一つ他国が持っていない武器を持っている事をここで思い出してください。それは昭和45年秋に公害国会と呼ばれる国会が開かれ、日本の公害関係の法制度が一応整備された年です。当時の日本は、公害列島日本と言われても仕方が無いぐらい公害を多発していました。その不正常な状態に対抗する為に、我々は環境庁を作りました。アブノーマルを解消する為に我々は環境庁を作ったつもりでした。 そしてアブノーマルを本当に解消する事を他国よりも早く日本は進めてまいりました。結果的に環境庁は仕事をすればするほど各省庁の中で地位が低くなり、仕事が無くなるという矛盾を引き起こしました。環境庁は昭和46年発足したが、それから20年後、20年経ったところで当時の環境庁の若い諸君が日本の公害体験と言うことで水俣病・四日市ぜんそく・イタイイタイ病・新潟水俣病の4つの典型的な公害を徹底的に分析し、そこに投じた資金は果たして日本経済をマイナスに生じたか?プラスに転じたか?徹底的に分析をしました。そして出てきた答えは間違い無しに非生産的経費ですから、結局それは投じないよりもはるかに大きな成果をあげた、そして新しい産業分野をひらいた。これは自信を持って公表できるものとして世間に環境庁の若い諸君が公表をしました。そして20年前には仇敵のように環境庁を攻撃していた学者の方々にもこの本に意見、執筆してもらった。おそらく日本の環境庁が出版した本の中であれほど売れたものは無いでしょう。
そして中国をはじめ、日本語から翻訳をし、自分の国の環境対策のバイブルにしている国が幾つか在ります。しかし使いこなしていません。

今我々が持つ実は最大の武器は20年前の多くの人命を犠牲にしながら公害と言うものに必死に取り組んで解決してきたそのプロセスなんです。そのデーターを良い所、悪いところ、失敗の原因まで突き止めて提供する事が実は私は(日本が)アジア・世界で大きな役割を果たせる分野であると思っています。

中国に、本当にひどい都市が幾つか在るのですが、(総理時代)江沢民さんに、モデル都市を作って日本に公害(問題)を解決させて欲しいと言ったら江沢民さんは、私の言ったときには怒ったんですが、私は二つと言ったんですが、その後、小渕さんには三つやってくれないかと、私は2つといったのに一つサバを読んで、増やして言われた。 今実際それを進めています。これはおそらく、中国のモデル都市になるでしょう。

旧ソ連が現在のロシアではないが、旧連CIA諸国として独立したかつての旧ソ連。各地を荒らし巻くってほったらかして、その結果カザフスタンのように新しい首都をつくって水源として使おうとしていた川が水銀汚染でまったく使えない。水俣のデーターをくれないかと言われ、直ぐに送りました。

今、広島大学・長崎大学で手分けをしてチェルノブイリもやってますし、旧ソ連が核実験を続けていたセミパラチンスクそこにも広島・長崎両大学の方々に交代で出てもらっております。我々が実はアジアに対し(ユーラシアを含めて)世界に戦える武器、それは環境。狭く言うなら我々が失敗してきた公害。二度と同じ失敗を人間に繰り返させない為に我々が失敗したデーターを恥ずかしくてもそのまま提供していく事、それが私は一番大事だと思っています。

お蔭様で、隠居しても体はどうやら無事ですから、今、環境にある程度自分の行動を絞り込んで、特に水を中心に仕事をしていますが、これは日本がもっと自信を持って世界に提供していただきたい武器なんだと、そして、アフガン(アフガニスタン)のボスがいる前で言いにくいのですが(松浪健四郎先生を見ながら)
この国(アフガニスタン)はタリバンのお陰で農業用水路・地下水路(カナート)をめちゃくちゃにしてしまいましたよね。今度はタリバンが逃げ込んで米軍が手榴弾を掘り込んでしまったので、もっとめちゃくちゃになった。アフガニスタンの復興は農業を復興させるしかありません。それは永年の人間の知恵で(水の)蒸発しないようにそれこそヒマラヤからの雪解け水を地下水路にながしてそれを分けて農業用水に使用してきた。あの知恵を使わなくてはならない。これはタリバンの時代に無茶苦茶にしてきて、そのタリバンを追いかける米軍が更に無茶苦茶にしてきた。その結果ウズベキスタンへ行く農業用水がゼロに近くなっている。このままでいったらウズベキスタンの綿花は壊滅的になり食料は確実に不足するのではないでしょうか。
これは今まで、この地域にかかわりを持ってこなかった日本ですから、助言が出来ます。そして今、京都大学の名誉教授である石田さんが一生懸命この地域のアラル海、再生に取り組んでいます。日本人はこつこつこつこつやってきてくれています。助けてくれてないのは日本政府だけ・・・。実は国民は気がついて助けてくれているんです。

それこそ、インド洋大津波があった時、若い学生諸君が津波の復興支援をしたいと言ってきたとき正直、役に立たないのでは?と首をひねりましたが、彼等はかつて激震な津波被害を受けた北海道の被災経験者、復興担当者、漁師をひっぱって連れていく計画をたてた。 いよいよ私は漁民を連れて行く事について首をひねりました。なぜなら日本で直近の津波被害地区は北方(奥尻島近辺)であったこと、そして奥尻近辺の津波の経験が果たして南の海(インド洋)に役に立つのか、と疑問に思ったからです。しかし考えてみれば北の海であれ南の海であれ、津波は魚の住処を流し去ってしまうので、これを元に戻すのには北・南関係なかったのです。津波で被害を受けた町を復興させる青写真を書くのに北の海であれ南の海であれ変りはありません。日本がおそらく一番効果的に支援を送ったのは彼らだったのではないでしょうか?
そして彼ら今、一生懸命海草をはやす、マングローブの根を増やす、小魚を泳がせる事に対して夢中で取り組んでいます。
今年メキシコで行われました第4回世界水フォーラムにおいて彼等は胸を張ってその報告をしておりました。本当に拍手がわいておりました。日本がすべき事は本当にそういう意味で確かにあります。
我々自身が、そことどんな係わりがあったのか?そしてそこにどんな傷跡を残してきたのか?今一度考えていただきたい。本日はそんな思いを込めてお話をさせていただきました。

ご清聴有難うございました。