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2006年3月8日 15:00〜 |
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国際局がこのような場を作っていただきましたので少し国際局に関連する分野から今日は時間を使わせていただこうと思います。 丁度今年の正月にスタンフォードに招かれて授業をしてきました。原稿を作るのが面倒だったのでほとんど質問で時間をつぶしましたが、驚いたのは圧倒的に日本は中国との関係をどうするのか?中国をどう見るのか?数年前は日本自身に質問が集中したんですが、日本がどういう見方を中国にしているのか?質問はここに絞り込まれた感じでした。
私が総理の時、クリントン大統領との間に私から普天間の問題を提起しました。ただしここは本当に自信が無く要望があったからテーブルに載せた。正直それぐらいの思いでした。私が知らなかったのはペリー国防長官が沖縄勤務の思い出を持っておられた。そして基地と沖縄の一般市民との距離を良くご存知だった。これが本当に場所を移せれば移してもいいというところにアメリカが踏み込んでくれた大きな原因だと思っておりますが、このような動きも残念ながらいつの間にか動きも止まってしまっています。しかしこの問題は何とか解決をしなければなりません。そして私は外交史は専門ではありませんが調べてみると、昭和16年12月8日に日米開戦。そして17年春にはアメリカの国務省には対日政策担当のグループが出来ていました。その中で最後まで戦略的にどう対応すれば良いのか?と言う議論をしていたのが、やはり沖縄でした。 |
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どういうわけか?私は人間がそそっかしいせいかどうかは知りませんがいろんな騒ぎにいやおう無しにぶつかりました。一番最初にぶつかったのはイランイラク戦争で、ホルムズ海峡の内側まで日本のタンカーは油を貰いに行くわけですが、その帰途、国籍不明ダウンボートから玉を打ち込まれて被害が続出した。ある時期から日本人船員がホルムズ海峡の内側まで入らないと言い出して、これを説得するのに苦労した。ある程度の大きさの船団を組んでホルムズ海峡に入り、その日時は事前に両国政府に対して知らせておく。そして1つの場所に油の積み込みが終った船を集めて船団を組まして外に出す。そんなこともしました。
しかしその頃、各国は海軍を大量にホルムズ海峡に派遣していました。そして一部ヨーロッパの国からは何でうちの船ではなくて日本の船に対して海軍を出さなければならないんだ?という議論がでた。正直私も国際的に追い詰められました。そして今とは時期が違いましたから実は私は海上保安庁の巡視船を送る。これは運輸大臣の権限の中ですから、これもさせて頂きたい。その代わり外務省の職員に頼んだ事は各国は軍艦を要望している。しかし軍艦は出せない。だから我々が出せるのは、所謂コーストガード、しっかりした船を送りこめば、それだけの評価が得られるか?どうか?これは正直、国際世論は二つに割れましたが、日本がそこまで考えた事に対してはある程度評価を得られました。そしてそうこうしている内に、ついに二人の日本人乗組員が戦死する事態にもなりました。そして海上保安庁の諸君は海の男として助けを求めている仲間が居るのに俺たちがほっておけるかと本当に彼等は行くつもりになってくれました。 そして内航海運のある船主の方が、ご自分の個人的な意思として自分のところでチャーターした船をクエートに送る。「積み込む資材に日本政府が協力出来ないなら我々は水を運ぶ」そこまで考えてくださった方がおられました。これは救いでした。そして日航機をチャーターし、ようやく日の丸のついた飛行機を一度だけ飛ばす事が出来ましたが、それ以上の貢献は出来ませんでした。 ところがそれに真正面からぶち当たったのが湾岸危機から湾岸戦争です。丁度ヒューストンサミットの終わり私は大蔵大臣として海部総理のお供をしたわけですが帰国直後にイラクがクウエートに侵略を開始しました。そして当然ながらクエート政府の資産も日本にあります有価証券類等をイラクが売ろうとした。これに強引にストップをかけてトラブリましたけどストップをかけてよかったと今でも思っています。そしてこの時も多国籍軍が編成される中に日本は入っていくことが出来ませんでした。 天安門事件の直後で中国が国際社会から孤立していた時期でしたから、弾が飛び始めた直後の大蔵大臣・中央銀行総裁会議、いわゆるG7、手ぶらでとてもここに望める状況ではない、戦費の分担を求められたらそれは日本は飲むしかない。その覚悟だけは決めて行きましたが、何も情報無しと言うのはつらいものですから、本当に私は天安門事件以降G7構成国の閣僚として初めて北京を訪問し当時の李鵬首相はじめ関係の方々に中国はこの湾岸戦争の対応を最後まで押し通すのか?そういう話を仕入れて、その上で私はワシントンに行ってきました。しかし各国が軍隊を出していく自国の若い人の命を懸けていく、その中にお金しか提供するものがないという立場は国際的には本当に辛い事でした。 そしてその時最後まで残った事は、イランとイラクの機雷の除去する作業です。国会のご了承を得てようやく海上自衛隊の掃海艇隊をホルムズ海峡に送ることが決り、気象状態は悪くなっていましたし、取りやすい所の地雷は他国が片付けてしまい、日本は最悪の場所を割り当てられる事になりました。幸いな事に511名なんらの負傷者も無くトラブルも無く無事帰国してくれましたが、この時正直私は外に出られない日本というのは、これでいいのかな〜自国の国民の安全を守る事が出来ない。このまま続いていいのだろうか?正直深刻な疑問に駆られました。
ですからスタンフォードでアマコスト氏、ペリー氏がおられましたから、私は「総理大臣としてたった一つ良い事をしたと思う。」と言った。それは96年クリントン大統領が訪日されたとき、大統領との間に日米安全保障条約共同声明を発出することが出来た。この中には日米防衛協力の指針を新しく作る、そして全く外の事にはふれることの無かった日本が周辺事態に対応する、あるいはテロ対策等国際社会でうごきうるベースをこの共同宣言で作る事が出来ました。 |
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私がこういう道を選択したのは湾岸危機から湾岸戦争に至ってのその思い出が強烈だったからです。こうやって考えて見ますと、いろんなことがあります。一昨年暮れに小泉総理のご依頼をうけて私はフランス・ドイツを口説きに行きました。そして「始まったイラク戦争なんだからこれをおさめる平和な国づくりをさせるその為には、復興事業に協力をしろよと、体裁悪くて一国で入りにくければ日仏・日独共同でやろう。我々はそれでよい。」幸いこの提案は活きてきました。ただ、イラクの中に入る事に対しては今もフランスもドイツもためらいがあり、協力もイラクの外で行っている状況にあります。しかし少なくとも警察官の訓練については、ドイツが積極的に乗り出してくれています。これは大変良い事でした。 そして、そんなことを言えば日本の方がよっぽど古いと思うのですが シラク大統領に言わせると文化の国フランスとしては米軍が破壊したイラクの古跡・旧石器の類を元に直す作業を、美術品等傷んだものを補修する。そんなところまで彼らもほぐれてくれました。そしてこのような説得をする時に、非常に生きた仕事が1つあります。
この頃ODAについて世間からいろんな批判が出るようになりました。おそらくそれはそれなりに意味のある事なんでしょう。しかしODAのお陰で今、私自身が国際的に助けられている一つの例。それは、エジプトカイロ大学医学附属病院を日本の支援によって改修されたことです。
そして数日後、私はメキシコに飛び立ちます。4年前、滋賀・京都・大阪と丁度、淀川水系の各県に大変なご努力を頂き、第3回世界水フォーラムを開きました。
そして私が水フォーラムの話をするのには理由があります。この頃、資源獲得競争、各国の間における資源の獲得競争について、いろんな角度で問題が提起されるようになりましたが、水を資源としてみていただく議論はなかなか出来なかった。しかし今、温暖化の進展の中かで、例えばキリバスと言う南太平洋諸島の島国。国土の70%が水没してしまった。そして今まで頼りだった地下水の中に浸透圧で塩分が混じっている。先日NHK放映され私も注意深く見ていましたが、私は日本が国際的にこれから活躍していける大きな舞台の場所の1つに環境と言うものがあると言う事をどうしても意識せざるをえません。
日本人は水に豊かな国であるという意識がどこかにあります。「水に流して」とか衛生状態を保たないような諺が幾つも残っている国ですが、実は人口一人当たりに割り戻して見ますと、決して水の豊かな国ではありません。確かに多量の雨が降ります。しかし中央山脈部で両側に流れ、その流域は狭く大半が海に流れてしまう。何とかして今の内に上流の樹をもっと根に水を蓄え、広葉樹の森に変えて行きたい。これは日本自身の1つの大きな課題です。 ロシアの学者の一部はツンドラ地帯が溶ける事により小麦その他の耕作面積が広げられるから、温暖化も悪いものではないというが私はこれを採用する気はない。むしろ問題はヒマラヤの氷がどんどん溶けている。今まで全くなかった場所に湖が出来ている。湖というよりおきな水溜りだ。何かの弾みでこれがきれれば下流域は全滅します。 |
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丁度10年ぐらい前に当時の建設省河川局の諸君が、ネパールで治水事業に取り組んでみたいという案を出してきました。そしてそれに対しネパール政府から協力が得られないか?と言うのもあった。 恐縮でしたが国際局と言う舞台を拝借して我々は非常に難しい舵取りをしながらこの国の未来をより安全なものにしていく為に全力を尽くす。その言葉を残して終りたいと思います。ご静聴有難うございました。 |
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質疑応答
対中国関係について中国に人脈をもっている先生に中国との付き合いは如何にすればよいのか?
ただ私も靖国に行ってトラぶった事がある。その時、中国側に私が言ったのは母の一番年上の兄、従兄弟、小学校一年生の担任の先生、皆駅で靖国の森に帰ってくるからな、来てくれよ。と言って皆帰ってこなかった。
私は死んだ方々へ対する約束を守っているわけで、戦犯にまいっているわけではない。 |
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国政に携わった先輩として政治家として今後の若者に
行革について。官邸指導をしたのは先生。経済財政諮問委員会等の創設者として現在の状況の感想 今私は内閣が経済諮問会議を始め、いろんな仕組みで動いていられる事を、これは仕組みとして間違っていないと思う。人材が全部良いかどうかは別ですよ。そしてむしろもう少し民間の意見が反映できるように人数配分を変えられたらといいのにな、と思っている。 |
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国際貢献の重要性について触れたが憲法改正、集団的安全保障について |
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