2006年3月8日 15:00〜
自由民主党本部にて講演 45分間

国際局がこのような場を作っていただきましたので少し国際局に関連する分野から今日は時間を使わせていただこうと思います。

丁度今年の正月にスタンフォードに招かれて授業をしてきました。原稿を作るのが面倒だったのでほとんど質問で時間をつぶしましたが、驚いたのは圧倒的に日本は中国との関係をどうするのか?中国をどう見るのか?数年前は日本自身に質問が集中したんですが、日本がどういう見方を中国にしているのか?質問はここに絞り込まれた感じでした。
実はスタンフォード大学は前の駐日大使だったアマコスト氏が総長ですし研究所の中にはペリー元国防長官がおられる。その意味ではこれから先も私はスタンフォードの諸君に日本は随分世話をかけなければならないな〜。ことに沖縄問題をメディアで拝見するたびにその様な思いを深めています。

私が総理の時、クリントン大統領との間に私から普天間の問題を提起しました。ただしここは本当に自信が無く要望があったからテーブルに載せた。正直それぐらいの思いでした。私が知らなかったのはペリー国防長官が沖縄勤務の思い出を持っておられた。そして基地と沖縄の一般市民との距離を良くご存知だった。これが本当に場所を移せれば移してもいいというところにアメリカが踏み込んでくれた大きな原因だと思っておりますが、このような動きも残念ながらいつの間にか動きも止まってしまっています。しかしこの問題は何とか解決をしなければなりません。そして私は外交史は専門ではありませんが調べてみると、昭和16年12月8日に日米開戦。そして17年春にはアメリカの国務省には対日政策担当のグループが出来ていました。その中で最後まで戦略的にどう対応すれば良いのか?と言う議論をしていたのが、やはり沖縄でした。
アメリカは蒋介石政権に中国が攻めてはどうだ?と言う事を提案していましたが蒋介石はこれを断り、それ以降、今度はアメリカが沖縄の重要性に気がつき、ここを手放すという体制は全くその時から国務省の中から消えました。連合軍最高司令官マッカーサー氏の権限が及ばなかった地域はじつは唯一沖縄だったんです。
これが今日まで沖縄の方々に大変な苦労をかけてきている大きな原因であることをどうか知っておいてください。それだけ戦略的に大きな意味のある場所なんだと。当時の既にアメリカの国務省がその様な位置付けをしていた。それが隠れようも無い歴史的事実です。

 

どういうわけか?私は人間がそそっかしいせいかどうかは知りませんがいろんな騒ぎにいやおう無しにぶつかりました。一番最初にぶつかったのはイランイラク戦争で、ホルムズ海峡の内側まで日本のタンカーは油を貰いに行くわけですが、その帰途、国籍不明ダウンボートから玉を打ち込まれて被害が続出した。ある時期から日本人船員がホルムズ海峡の内側まで入らないと言い出して、これを説得するのに苦労した。ある程度の大きさの船団を組んでホルムズ海峡に入り、その日時は事前に両国政府に対して知らせておく。そして1つの場所に油の積み込みが終った船を集めて船団を組まして外に出す。そんなこともしました。

しかしその頃、各国は海軍を大量にホルムズ海峡に派遣していました。そして一部ヨーロッパの国からは何でうちの船ではなくて日本の船に対して海軍を出さなければならないんだ?という議論がでた。正直私も国際的に追い詰められました。そして今とは時期が違いましたから実は私は海上保安庁の巡視船を送る。これは運輸大臣の権限の中ですから、これもさせて頂きたい。その代わり外務省の職員に頼んだ事は各国は軍艦を要望している。しかし軍艦は出せない。だから我々が出せるのは、所謂コーストガード、しっかりした船を送りこめば、それだけの評価が得られるか?どうか?これは正直、国際世論は二つに割れましたが、日本がそこまで考えた事に対してはある程度評価を得られました。そしてそうこうしている内に、ついに二人の日本人乗組員が戦死する事態にもなりました。そして海上保安庁の諸君は海の男として助けを求めている仲間が居るのに俺たちがほっておけるかと本当に彼等は行くつもりになってくれました。
しかしどうしても後藤田官房長官の了解が取れない。その間にいつの間にかホルムズ海峡の内側が安定し安全になり、結果的に巡視船を送らなくてよくなった。

そして内航海運のある船主の方が、ご自分の個人的な意思として自分のところでチャーターした船をクエートに送る。「積み込む資材に日本政府が協力出来ないなら我々は水を運ぶ」そこまで考えてくださった方がおられました。これは救いでした。そして日航機をチャーターし、ようやく日の丸のついた飛行機を一度だけ飛ばす事が出来ましたが、それ以上の貢献は出来ませんでした。

ところがそれに真正面からぶち当たったのが湾岸危機から湾岸戦争です。丁度ヒューストンサミットの終わり私は大蔵大臣として海部総理のお供をしたわけですが帰国直後にイラクがクウエートに侵略を開始しました。そして当然ながらクエート政府の資産も日本にあります有価証券類等をイラクが売ろうとした。これに強引にストップをかけてトラブリましたけどストップをかけてよかったと今でも思っています。そしてこの時も多国籍軍が編成される中に日本は入っていくことが出来ませんでした。

天安門事件の直後で中国が国際社会から孤立していた時期でしたから、弾が飛び始めた直後の大蔵大臣・中央銀行総裁会議、いわゆるG7、手ぶらでとてもここに望める状況ではない、戦費の分担を求められたらそれは日本は飲むしかない。その覚悟だけは決めて行きましたが、何も情報無しと言うのはつらいものですから、本当に私は天安門事件以降G7構成国の閣僚として初めて北京を訪問し当時の李鵬首相はじめ関係の方々に中国はこの湾岸戦争の対応を最後まで押し通すのか?そういう話を仕入れて、その上で私はワシントンに行ってきました。しかし各国が軍隊を出していく自国の若い人の命を懸けていく、その中にお金しか提供するものがないという立場は国際的には本当に辛い事でした。

そしてその時最後まで残った事は、イランとイラクの機雷の除去する作業です。国会のご了承を得てようやく海上自衛隊の掃海艇隊をホルムズ海峡に送ることが決り、気象状態は悪くなっていましたし、取りやすい所の地雷は他国が片付けてしまい、日本は最悪の場所を割り当てられる事になりました。幸いな事に511名なんらの負傷者も無くトラブルも無く無事帰国してくれましたが、この時正直私は外に出られない日本というのは、これでいいのかな〜自国の国民の安全を守る事が出来ない。このまま続いていいのだろうか?正直深刻な疑問に駆られました。

ですからスタンフォードでアマコスト氏、ペリー氏がおられましたから、私は「総理大臣としてたった一つ良い事をしたと思う。」と言った。それは96年クリントン大統領が訪日されたとき、大統領との間に日米安全保障条約共同声明を発出することが出来た。この中には日米防衛協力の指針を新しく作る、そして全く外の事にはふれることの無かった日本が周辺事態に対応する、あるいはテロ対策等国際社会でうごきうるベースをこの共同宣言で作る事が出来ました。
もしこの共同宣言を作っていなかったら9.11の事件が起きた後、日本は果たして国際的に立っていけたのだろうか?時々そんな思いにかられることがあります。

 

私がこういう道を選択したのは湾岸危機から湾岸戦争に至ってのその思い出が強烈だったからです。こうやって考えて見ますと、いろんなことがあります。一昨年暮れに小泉総理のご依頼をうけて私はフランス・ドイツを口説きに行きました。そして「始まったイラク戦争なんだからこれをおさめる平和な国づくりをさせるその為には、復興事業に協力をしろよと、体裁悪くて一国で入りにくければ日仏・日独共同でやろう。我々はそれでよい。」幸いこの提案は活きてきました。ただ、イラクの中に入る事に対しては今もフランスもドイツもためらいがあり、協力もイラクの外で行っている状況にあります。しかし少なくとも警察官の訓練については、ドイツが積極的に乗り出してくれています。これは大変良い事でした。

そして、そんなことを言えば日本の方がよっぽど古いと思うのですが シラク大統領に言わせると文化の国フランスとしては米軍が破壊したイラクの古跡・旧石器の類を元に直す作業を、美術品等傷んだものを補修する。そんなところまで彼らもほぐれてくれました。そしてこのような説得をする時に、非常に生きた仕事が1つあります。

この頃ODAについて世間からいろんな批判が出るようになりました。おそらくそれはそれなりに意味のある事なんでしょう。しかしODAのお陰で今、私自身が国際的に助けられている一つの例。それは、エジプトカイロ大学医学附属病院を日本の支援によって改修されたことです。
日本もサマーワは別として独自の復興支援は必要ですが、イラクの中にはいっていく危険を民間の方々に犯して頂くわけには行きませんから、エジプトと協力の形でイラク人医師・看護師の再教育のプログラム進めています。先日行ってみるといつの間にか受講者は既に450人を越えました。 その上で彼らには言われているのは、ものすごく勉強させてもらった。これだけのレベルの医学を皆身につけて帰れる事ができるとは想像もしていなかった。日本の協力に感謝する。その上で日本に言いたいのはサダム・フセインの時代に病院の設備なんか全く省みずきたので、こんな新しい機械が自国に帰国しても病院には無い。丁度私が先日訪れた時も、980グラムの早産児を助けて人工保育器の中でお医者さんと看護師さんが肩を寄せ合い、この子を生かせるために全力投球していました。この機械があるから、この子を助けるチャンスがある。しかし俺はバスラの病院だがバスラにはこんな機械は1つもない。折角ここまでのトレーニングのプログラム組んでくれたのであれば、この機材を使えるようになった我々に機材を提供して欲しい。これはある意味切実な叫びでした。私は日本政府にこの言葉を伝え、同時に日本政府がこの言葉に答えてやってくれる事を願っています。
そして彼らが欲しいものはあらゆるものなんですね。帰りの荷物の多さにはビックリしました。医学書の類を山ほど買い、医学書なんて全く手に入らなかった、自分たちが全く知らなかった医学の知識が学べる。そして自分が母国に帰り若いドクターに教えるその教材として使う、オーバーに言えば八反風呂敷に包んでもって帰るような量を彼等はもって帰りました。その熱意には打たれたと同時に、外務省に対してはこういう声が対話していると出てきた。それは私も必要だと思う。手助けしてやってくれる事ができないか?今、アメリカとルールがどうのこうのと、面倒な事を言っていたが、助けられる人間をほっておいて良いとアメリカから返事が来たわけではない。何か工夫して彼らの知識に答える努力をしてもらいたい。今、切実に思っています。

そして数日後、私はメキシコに飛び立ちます。4年前、滋賀・京都・大阪と丁度、淀川水系の各県に大変なご努力を頂き、第3回世界水フォーラムを開きました。
これは相当以上に大きな反響を呼び、第4回をメキシコが引き受ける事になりましたが、日本水フォーラムの関係者がメキシコの事務局を手伝う事が条件付で、私たちはその為に早めに入らなければならくなりました。
そのとき、大変感銘を与えたのは皇太子様が京都朝廷が何故あの場所に出来たのか? これを水運史の立場から淡々とお話になられたことでした。延喜式の中の記述まで、ご自身で調べられ当日まで原稿に手を入れられるご講演でしたから、これは大変な世界的な反響を得ました。今まで、国際的にはオランダ皇太子が水の世界では大変良い評価を受けていたがどちらかと言うと想定に無かった事もあり、皇太子様のお話はものすごい評価になりました。今度の世界水フォーラムにおいても失礼にならない範囲で是非お話をしていただく事が出来ないか?日本側にお願いして欲しいとフォックス大統領から頼まれて皇太子様のところへお願いにまいりました。おそらく今度もテムズ川の水運とおそらく徳川八代将軍吉宗の時代の治水事業、ことに高い段差のある水門、閘門式と言うんですか?締め切っては水の高さを揃える。段々下におろしていく。私も皇太子様からお話を伺う前までは、パナマ運河よりも180年も早く同じ原理でその様な水路を日本人が作っていたとは知りませんでした。そしておそらく殿下はこれにからめてお話をすると思う。メキシコですから、日本からそんなに多くの方々がお越しいただけるとは思わないが、我々が胸を張って終れるそんな世界水フォーラムになるかと思います。

そして私が水フォーラムの話をするのには理由があります。この頃、資源獲得競争、各国の間における資源の獲得競争について、いろんな角度で問題が提起されるようになりましたが、水を資源としてみていただく議論はなかなか出来なかった。しかし今、温暖化の進展の中かで、例えばキリバスと言う南太平洋諸島の島国。国土の70%が水没してしまった。そして今まで頼りだった地下水の中に浸透圧で塩分が混じっている。先日NHK放映され私も注意深く見ていましたが、私は日本が国際的にこれから活躍していける大きな舞台の場所の1つに環境と言うものがあると言う事をどうしても意識せざるをえません。 日本人は水に豊かな国であるという意識がどこかにあります。「水に流して」とか衛生状態を保たないような諺が幾つも残っている国ですが、実は人口一人当たりに割り戻して見ますと、決して水の豊かな国ではありません。確かに多量の雨が降ります。しかし中央山脈部で両側に流れ、その流域は狭く大半が海に流れてしまう。何とかして今の内に上流の樹をもっと根に水を蓄え、広葉樹の森に変えて行きたい。これは日本自身の1つの大きな課題です。
しかし世界的にみると水は大変な資源です。そして国と国との間を流れる、どちらに水利権があるか?その流域の管轄権はどちらに属するのか? 今そのようなルールが確立しているのはナイルだけです。しかしそういう流域国会議のような仕組みを必要とするのはメコンもあるしアマゾンもある。数多くの場所にこれらの問題がある。そして今その温暖化の影響で予想もしない所に水が出てきています。昨年愛知地球博覧会を見に行ってくださった方もこの中には沢山いると思いますが、あそこにマンモスが展示できたのはツンドラ地帯が溶けてきた証拠なんです。ツンドラ地帯が溶け出したからこそ掘り出す事ができたそう考えるとあんまりうれしい話ではありません。

ロシアの学者の一部はツンドラ地帯が溶ける事により小麦その他の耕作面積が広げられるから、温暖化も悪いものではないというが私はこれを採用する気はない。むしろ問題はヒマラヤの氷がどんどん溶けている。今まで全くなかった場所に湖が出来ている。湖というよりおきな水溜りだ。何かの弾みでこれがきれれば下流域は全滅します。

 

丁度10年ぐらい前に当時の建設省河川局の諸君が、ネパールで治水事業に取り組んでみたいという案を出してきました。そしてそれに対しネパール政府から協力が得られないか?と言うのもあった。
はじめこの問題を持ち込んだとき、治水と言う概念事態を知らせる事に苦労をしました。そして彼等は大型の機械を持ち込まず、地元の人々が全て手作業で出来るようなやり方を考え、例えば砂利をつめるジャ籠を鉄線で編むしにしてもそれを手作業でやっていく、中に入れる土を村のお年寄りも子どもも含めて出来るようにした。そして、丁度5年たちましたとき第一期が終り、これで終りかなと思って私が行ったら王様に捕まりまして政府の中に専用の局を作るので是非、延長してもらいたい、5年ではなく10年単位で延長して欲しいと言われ、これはいっぺんに返事は出来ないが、しかしこれだけ喜んでくれるのであればみな手伝いますよと言いました。これは今も続いています。
ネパールの洪水を防ぐ事ができれば下流のバングラディッシュの水害を少しでも減らす事ができる。我が国の過去の苦い経験がいきるものも幾つもあります。昨年カザフスタンに行きました時、良い川が流れていると言ったら、これは水銀高山の廃液が流れているので使えない。そして水俣の資料を欲しいといわれたので送りましたが、過去にやった失敗をそのまま隠さず提供することによって出来る事が随分ある。今私はそんな感じで仕事をしています。

恐縮でしたが国際局と言う舞台を拝借して我々は非常に難しい舵取りをしながらこの国の未来をより安全なものにしていく為に全力を尽くす。その言葉を残して終りたいと思います。ご静聴有難うございました。

質疑応答

対中国関係について中国に人脈をもっている先生に中国との付き合いは如何にすればよいのか?
中国との付き合いにルールがあるわけではないが、中国人の考えの違いと我々の考え方の違いについて話をしたい。丁度私が厚生大臣当時に「阿波丸」と言う日本の船が台湾海峡で発見されました。その沈んでいる船の中から日本政府が礼を持って迎えにくるなら遺骨を出来るだけ集めてお返しするといわれ、それは喜んでいきました。これはむしろ連合軍から各地の捕虜収容所への慰問袋を詰め込んでいく船。その帰りに女・子どもを乗せる事はいい、そういう約束になっていたにもかかわらず、沈められた船だったんです。当然のことながら私は行ったのですが、私がビックリしたのは、私の小指ぐらいしかない印鑑を7つ拾い出してくれた。沈船の中から印鑑を探し出す作業は大変なこと。その上で実は殉職者が2人出ていた事も知っていましたから、それぞれのご家族にお見舞い(香典)を用意してもっていこうと考えた。日本人の感覚では当然ですが、しかし中国政府からぴしゃりと跳ねられてしまった。彼らは作業手順を守らなかったから死んだ。そういう人に特別なものを与えられてはわが国としては困るといわれた。困るといわれてもこっちも困る。
結局押し問答の末、家族には日本の意思を伝達していただき、潜水夫の方々の休養施設を作る事に使ってもらうことにしました。
このような事で中国の方と我々確かに違う部分がある。その違う部分を意識して付き合っていけば私はこんなにこじれる事はなかったと思います。

ただ私も靖国に行ってトラぶった事がある。その時、中国側に私が言ったのは母の一番年上の兄、従兄弟、小学校一年生の担任の先生、皆駅で靖国の森に帰ってくるからな、来てくれよ。と言って皆帰ってこなかった。 私は死んだ方々へ対する約束を守っているわけで、戦犯にまいっているわけではない。
これでも随分押し問答になった。そして例えば8月15日避けてくれと言われたのでそれは避けた。それは避けるよ。そして中国に対しては国交正常化に反対する国民をなだめる為に毛沢東・周恩来が日本の一般大衆だって同じ犠牲者なんだ。指導者が間違っただけで彼らも同じ犠牲者なんだということで、そこをわかってやれと国民に言い、抑えきってくれていただけに、A級戦犯だけにフラッシュをあてられると彼らとしては硬い反応をせざるをえないのだと思っています。

国政に携わった先輩として政治家として今後の若者に
先輩の経験なんて役に立たちません。特に国際では9.11以降、我々の経験なんて役に立ちません。テロとの戦争なんて我々の世代には考えられるものではありませんでした。
ですからそれは逆に誠心誠意努力していただく以外に申し上げる事は何も無い。

行革について。官邸指導をしたのは先生。経済財政諮問委員会等の創設者として現在の状況の感想
多少思った方向と一致しないものが生まれている事は間違いない。私は公務員の数だけを減らせば良いとは思わない。これは国でも地方でも同じ事。もう1つは何年か経って検証することが絶対に必要だとおもう。私は国鉄の分割民営化の張本人です。運輸省の大臣室に過激派からロケットを撃たれて迷惑した。自分は間違っていないと思っているが、その上で先日の福知山線の事故が起きた時、もしかすると私は設計を間違ったかな?と本気で思った。
あの分割にはそれなりの調査の結果があり、その上でJR東日本を看板会社にしようと、そういう思いがみなにあった。含み資産を他に比べてあるていど潤沢に渡した。東海会社は設計ミスが早い時期に分かった。償却資産を持たせなかったので、黒字が全て表に出て、偉い高い税金を取られた。結局新幹線を買っていく、そこに償却資産を作ることでバランスを取った。一番半端になったのが西日本であった。本州三社の中でエリアが広い、ある程度人口数もある、事業用資産はそれほど潤沢ではなかった。むしろそれを売り払ってでも赤字を少しでも減らす事を考えた。我々は西日本にもうすこし余力をもたせ設備改良資金を持たせるべきであった。そういう意味であの事故が起きてから凄く考えさせられています。

今私は内閣が経済諮問会議を始め、いろんな仕組みで動いていられる事を、これは仕組みとして間違っていないと思う。人材が全部良いかどうかは別ですよ。そしてむしろもう少し民間の意見が反映できるように人数配分を変えられたらといいのにな、と思っている。

国際貢献の重要性について触れたが憲法改正、集団的安全保障について
その様に言われると非常に堅苦しい答えになる。
ただ、先ほど例にしたお医者さん、病院、悪い事でしょうか?そしてアフガニスタンに行く海外の船に対する油の補給を続けている。縁の下の力持ち。危険は無いが、毎日大変でしょう。そういう行動まで全ていけないというのであれば私は異論がある。そして???
何か動かないみたいな、そんな堅苦しいものは私はご遠慮させていただきたいし、68歳になったら徴兵されないしね。(笑)しかし我々に出来る事があればお使いいただければいい。どういう使い方がいいのか私には分からないが、作って欲しいなと思う。現地に居る在留邦人を救出する為、例えばインドネシアでスハルト政権が倒れる前、私は混乱が心配でタイのウタバオまで自衛隊機を3機送ったことがあった。島だらけの国ですから、船でヘリコプターでピックアップした人を乗せなければならない。自衛隊より保安庁の巡視船の方が良い、実はこれは法律制度から言えば全て違法行為。 私の行動を許す条文は何処にもない。しかし私は条文より日本人の命のほうが大事だった。幸い使わずにすんだ事を幸せに思っている。