2006年1月26日 17:15〜18:30
基調講演 IN スタンフォード大学

 

この度、ここスタンフォード大学「アジア・パシフィックリサーチセンター」において、この様な機会を設けていただきました、シン所長、Dr.アマコスト、そしてショーレンスタイン氏に対しましてこの場をお借りしてまず初めに御礼申し上げます。

1955年自民党は結党し昨年結党50年周年を迎えました。しかし近年自民党が単独で国民の指示を仰ぐ事が難しくなってきました。
私たちと仲の良い人達は郵政改革で昨年から今年の初めにかけて党から排除されていきました。私にとってこの結党50周年は非常に苦いものでありました。

自民党は1955年〜1993年8月の非自民党連立政権である細川内閣が発足するまで、日本の政治の中枢にいました。1996年1月に私が内閣を組織した時に自民党は政権の中枢に復活しましたが、小泉内閣・自民党により55年態勢は崩壊しました。

自民党は1つの党の笠の中で思想・価値観・政策方向の異なる人材とグループを包含していた。当時例えば一部のグループは日本社会党の右翼グループよりも左であるとさえいわれていました。

このような体制を支えてきたのは中選挙区制でした。当時は党の執行部と意見が違っていても国民の支持を受けられれば当選していたんです。党の中で思想や政策方向の異なるグループがその時代、時代の選挙民の要請に応じて、党の主導権を掌握してきました。このような1955年体制を支えてきたのが、中選挙区制でした。1つの選挙区から数人の当選者が出ると言う中選挙区制の下では、自民党の執行部と政策などで意見を異にするなどの理由で、党の公認が得られない場合でも、選挙民の指示を得て、党内で発言権を維持することが出来きました。これが、自民党の多様性を担保し、一党独裁という形を取りながらも時代の要請にこたえる弾力性を持っていました。

 

しかし、ある時期から中選挙区制を廃止して、小選挙区制、比例代表制を採用すべきという動きがでてきました。

そして選挙制度改革に反対するものは守旧派、小選挙区賛成派は改革派と色付けされました。もちろんメディアもそういう流れであった。(同調した)その結果、1993年8月自民党が入らない内閣が初めて出来たのです。

ペリー国防長官と沖縄問題について、野党の政務調査会長として話をした事がありました。
その当時は小選挙区制・比例代表制への改正は党執行部の強化にあった。小選挙区制は候補者に対し党が公認するかどうかで決定的なものを与える。比例代表制にあたっては、党の作成する順位で当選かどうかが決定される。小選挙区制導入は党の執行部に政策的な異論を唱える事や、党の思惑、価値観、政策方向の多様性を失う結果となった。
それを複雑な思いで見ている私自身も賛成ではなかった。当時の小泉さんも反対した一人だった。
しかしそんな小泉さんを日本国民は圧倒的な支持をした。郵政改革等に・・・。
そして私達と仲の良かった人たちは除名されていった。

 

野党、連立政権の中から自民党の政権に戻ったとき1つ良い事をしたと思うことがある。1996年クリントン大統領との間に日米安全保障条約共同声明を出した。
安保共同宣言を受け日米防衛協力の指針を新しく作り、周辺事変、テロ対策等、日本が国際社会で動けるベースを作った。これが無ければ。9.11で日本は何が出来たか?考えさせられた。当時アマコスト氏(元駐日米国大使)、ペリー氏(国防大臣)にはご苦労をかけた。
総理として道を選んだのは湾岸危機から湾岸戦戦争への頃である。私は大蔵大臣として日本の当時の法制度の中では(日本として)資金提供しか出来なかった。これは大変悔しかった。
予想もしなかった事態にテロと真正面から向かいあわなければならない。これは(日米安全保障条約)を作った当時じゃ思いもよらなかった。
あの時(総理在任中)、作らなければ皆様の前で話をする事ができなかっただろう。
(日米安全保障条約により)日本としての行動をとれるようになった。そのようなチャンスを作ってくれたきっかけは今のお二人(アマコスト元大使・ペリー国防大臣)である。
考えてみるとお国との間には色々な事がありました。自動車交渉等アメリカと良く衝突した。そして大学で話をするときは恐ろしい思いをする事がある。

1997年のデンバー・サミットの帰路、ニューヨークに立ち寄ってコロンビア大学でスピーチをした時のことです。
質疑応答の際に、聴衆の中から、次のような質問をした人が居ました。「日本は、米国の国債を買い続け、その結果、大損をしていますね。この際、保有する米国債の一部でも売って、金を買ってはどうですか。」
このような質問が米国人の間から出て来るのが面白いところだとは思いましたが、これに対し、次のように答えたと思います。
「私だって、そういう誘惑にかられたことはありますよ。特に、米国が自国通貨であるドルの価値の維持に関心がないように見えるときにはそうでした。しかし、米国債を売って金を買うというようなことは日米双方にとって、決して好ましいことではありません。従って、私は、そういうことをやる気はありません。」
ところがその直後、ある米国の通信社から「Prime Minister Hashimoto suggested that Japan would sell U.S. Treasury bonds and buy Gold」と流れたということです。その結果、ドルが下落しただけでなく、米国債価格も下落したのにはちょっとびっくりしました。丁度その時に居合せた私が蔵相のときの財務官だったMr. 内海が、その後、ワシントンに行って、グリーンスパン議長やサマーズ財務副長官に、情況を説明したようです。グリーンスパン議長は、「自分にも、発言がおよそ想定しない形で報道されることがある。特に、質疑応答のときには、そういうことが起るものです。」と理解してくれたということでした。
この時の私の答え方の伏線となったのは、クリントン政権の初期において1ドル80円を越えるような極端な円高となり、これが日本経済に決定的なダメージを与えたことです。当時のクリントン政権の高官は、円高を招くような発言を意識的に繰り返すことが、両国間の問題について日本へのプレッシャーとして有効だということを学習し、この「円高カード」を意識的に使ったのではないかと思われます。当時、米国経済は旭日の如く好調、日本経済はバブル崩壊後の深刻な沈滞、そして、非自民党政権たる細川、羽田内閣、そして、自、社を含めた連立の村山内閣というように、政治的にも極めて不安定な状況にありました。この状況下での円高というのは、米国の「円高カード」以外に説明できないのです。これについては、日本の当局は巨額のドル買い介入で立ち向ったことは当然です。そして、2期目に入ったクリントン政権が、1998年7月、日本との協調介入に踏み切って、円高局面が終息したのでした。
この「円高カード」を引っこめる代りに、米国は日本経済の回復を速やかに実現するため、財政による大胆な刺激策をとることを求めて来ました。経済再建の必要を誰よりも切実に願っているのは我々自身ですから、それに必要な限りにおいて積極的な財政政策をとることにはやぶさかでない、しかし、一旦、大規模な減税に踏み切ると、これをもとに戻すことは政治的に極めて困難です。そこで、私は主として公共事業によって景気刺激を図ろうとしました。これに対して、米国財務省首脳は、「減税で対応すべきだ」と固執するのです。
我々が公共事業費を中心とする景気刺激策を発表すると、ワシントンから、「これでは効かない」というコメントが流れて来るのですから、折角の景気刺激策もそのスタートから挫折し、市場心理に有効に働かなくなってしまった訳です。
その頃、内海氏(財務官)が、「米財務省が5,000億円程度の減税をすべきだと言っているそうだが、米国の方でその財源を心配してくれるわけではない。それなら、1ドル80円の頃大量介入したドルが外国為替特別会計に蓄積されているのだから、1,000億ドル程度、米国債を売れば、今の為替レート(1ドル130円程度)なら、5,000億円ぐらい利益が出る。それを財源にして減税したらいい。」と私に言いました。さすがに、私としてもこれに踏み切らなかったが、一度くらい、そう言うことを口に出してみたかったような気がしています。

 

国債を一度ぐらいは売ってみたいという思いはある。質問者の質問は非常に面白いものであり為替に敏感に反応をしなければならないことである。

自分達は色々な事を経験した。
アマコスト大使には4ヶ月先に生まれただけでズットと偉そうにされてきた(笑)。小渕氏は1ヶ月先でも偉そうに言われたが・・・。(冗談まじりで)

この度はお誘いを受けこの様な機会を受けることができました。
自分の話す時間はこの程度にしたいと思いますが、最後に御礼をしたいのはペリー国防長官当時の沖縄在米軍基地等の話は、おかげさまで訪日してくれた当時の緊迫した状況は無くなった。彼らの意見と同じでないが、彼らがじっくり意見を聞いてくれるようになった。当時の国防長官として尽力してくれたことにお礼を言いたい。有難うございました。