今日、こうして本当に有意義な会合にお招きをいただきまして本当にありがとうございした。まさに今、告示直前、選挙運動の忙しい最中で、晃和(こうわ)さんの命令で、今朝は出頭いたしました。ただ、実はこの人はひどい人でして、その、今日のスケジュールだけは、前もって教えてくれていたんですが、何のために僕が呼ばれたのかは、昨日初めて教わったんです。そこで、彼が自分で考えている問題意識のペーパーだけをもらいました。後は、とにかく何かしゃべれという、こういう後輩を持つと非常に苦労いたします。同じ慶応の、そして一時期剣道部でも一緒でした。そんなことから、今日お招きをいただきました。
今、佐藤さんから、佐藤総理の沖縄訪問時のお話に触れられましたけれども、私が初めて沖縄に参りましたのは、その佐藤総理の沖縄訪問から本土に戻られたすぐのことです。そして、当時の総裁であった佐藤総理、総理ではなく自民党総裁として当時の若い議員の中、数名に、沖縄にぜひ訪問し、そしてできるなら先島まで足を伸ばし、その上で現地の皆さんと議論してこい、こういう指示をいただきました。そして、ちょうど8月ぐらいだったと思いますが、その総裁のご命令で、ひとつのグループを作って、沖縄を訪問いたしました。考えてみますと、その中には、総理経験者、私を入れて3名含まれておりました。団長格の宇野宗佑さん、そして小渕恵三さん、私、他にも数名が参りましたけれども、私にとりましては、その時の、沖縄のイメージというものが、まだ心の中から消し切れておりません。
もともと第二次世界大戦に日本が敗れたとき、すなわち、1945年8月15日、私は小学校の2年生でした。そして、沖縄という名前を聞いたのも、この沖縄戦が始まった、その時期のラジオの放送からでした。そして、私が非常にかわいがってもらっておりました、一番年長のいとこが、今考えてみればおそらく、偵察で本土から飛んだのでしょう、沖縄に向けて飛行中、南西諸島方面において行方不明という戦死の公報をもらいましたと、南西諸島という言い方も、初めて耳にいたしました。
米軍が沖縄に上陸し、戦闘が開始されてからのラジオで、沖縄という地名を聞かされ、一緒におりました、疎開中でありましたけれども、その、母から、ゲンザブロウ兄さんが亡くなった南西諸島というのは、つまり、この沖縄のことなんだ、とそう教えられ、まず私の頭の中に刻み込まれたのは、どちらかというと沖縄より南西諸島という言い方の方が先だったように思います。」
それなりに様々なイメージを持って、その佐藤総裁のご指示で行きました沖縄。一番強烈に残っておりますのは、私の背丈より高い木がなかった。そして、それより高い木は、皆その砲弾で先端部分を吹き飛ばされて、本当に高い木がない、これが非常に強い印象に残りました。そして、今戦跡公園という以上、摩文仁のあたり、大変美しく手入れがされておりますけども、本当にまだ不発弾が道端にあったり、現にまだ遺骨を拾っておられる方々が、そのどなたのものとも分からないお遺骨を魂魄の塔におさめておられる。そんな時期でした。
あらゆることが私にとっては驚きでしたし、驚き以上にいかに激しい戦闘が行われた地域かということを痛感させられて帰ってきたように思います。それから沖縄が本土復帰、そしてその後本土の各システムと沖縄県の様々な米軍占領下における、あるいはまた民政府の行政の違いを修正するのに、随分長い時間がかかりました。
私は当時、当時の言い方なら厚生省関係、こうした問題を自分の中心として手がけておりましたので、その中には、それこそ混血児の問題もありましたし、あるいは6歳未満で戦傷をされた方々に対するお見舞いの問題、対馬丸事件をはじめとした戦争による本土の他都道府県にはない課題をひとつずつ解決していくのに随分時間がかかったように思います。しかし率直に言って、私、当時例えばその沖縄が日米安保条約下において米軍の駐留によってどのような問題を抱えておられるかということにまで十分思いをいたしていたわけではありません。その後、多少沖縄と縁が切れた時期が暫く続きました。
そしてちょうど自民社会さきがけ3党の連立で村山内閣をつくり、いったん野党を経験した私たちが村山総理を支える役割になったと、私は通産大臣を拝命いたしましたけれども、その時期にあの有名な少女暴行の事件が起き、久方ぶりに沖縄と本土政府、在日米軍との間に緊張関係が露出したと申し上げてよかったと思います。おそらく、高良先生なんかはよくご承知、現地におられたのかもしれません。あの県民大会がありまして、私はちょうど4極の通商大臣会合でロンドンにおりました。実はその前の状況をほとんど聞かないままに、いきなりBBCの2番目のニュースにあの沖縄の状況が映し出され、そして同じニュースを見ていた他の代表達からその説明を求められました。
私自身がそのBBCの映像を見る以外に他の情報を持っておらない状況でありましたけれども、その緊迫した状況というのは、テレビの画面によって、むしろより拡大されて世界に報じられたのではないだろうか、その時私はそんな印象を持ちました。
と同時に、その画面を見ている私がひとつ目を引かれた、そして4極通商大臣会議というのはアメリカとカナダ、イギリス、そこにEUがきますけれども、そのメンバーに対して、「あなた方、日本語の分かる人に見てもらいなさい。あれだけの整然とした集会が行われる、そして非常に激しい言葉は飛び交っているけれども、そこのプラカードの中に、例えばアメリカ出ていけ、米軍出ていけ、いったようなむき出しの表現のプラカードがなかった。これは、あなた方が見て、感じてくれなければいけないことなんだ」。
まぁ、これ、本当に、私は本当に強調しましたが、さすがに私のけんか相手で名高かったミッキー・カンターが、これは非常に敏感に反応しました。そして、「俺、後でホワイトハウスに連絡することがあってね、龍が、あのニュースをそういう目で見ろと言ってくれた、と伝えていいか」そういう反応を彼がしてくれました。
あと、総理を辞め、クリントンさんも大統領を退かれた後で、一度私はその時にカンターが本当に伝えてくれたのかどうか確かめたわけでございます。そのミッキーからの伝言を覚えているか。だけどあの時おまえ総理じゃなかったよね。そら総理じゃない。自動車交渉の当事者で、通産大臣だったと。まぁそんな話をいたしましたけれども、外地で見た時、もうひとつ狙ったのはあれだけ大規模な集会でありながら、非常に整然と行われた。特にこれはヨーロッパの人達は、あれだけ大規模な集会があれば混乱が起こるのが普通、当然だという受け止めで見ていたようでした。これが整然と行われたということに非常に大きなショック、ショックでもないでしょうが、驚きを持っておりました。
そういう中で、村山さんが突然の辞任をされ、その後継総理に私が指名をされました段階から、私にとって非常に大きな課題のひとつは、沖縄県との間の刺々しい雰囲気、そしてその刺々しい雰囲気を理解しながらアメリカとどう接するか、これが非常に大きな私の課題になりました。ですからサンタモニカの、初めてクリントン大統領に首脳同士としてお目にかかる前、どうしても私が会いたかったのは、当時の沖縄県知事の大田さんでしたし、そして、普通の形式的な面会ではなく、時間をとって、思い切って私も自分の意見を言いながら、大田さんにも本音で話していただきたい、そんなことを感じておったように思います。
その大田さんに会う前に、大田さんの著作物にも目を通しておきたいと思い、たまたま私にとっておもしろい興味のあるものだったものですから、司政官という、まさに司政官制度というものを書かれた本を読ませていただきました。そしてそれまで割合に沖縄に対して縁があり、ある程度沖縄に友人もあり、本土の人間としては知っている方だと思っていた私は知らなかったことがある、その中にいっぱい出てきました。実は、付箋をつけまして、大田さんが来られた時に、その疑問点を説明してもらったんですけれども、二十何カ所か付箋をつけておきまして、予定の時間を非常にオーバーしたことを今でも覚えております。
私は、考え方、立場は違いましたが、あの時大田さんは非常に率直に接してくださったと思っています。そして本音で話してくださったと、私にはそういう思いがいたしました。そして、その間、沖縄県と政府の間には結構色々な問題がたまっておりましたけれども、大田さんはそういう想定される問題は一切横に置かれて、その普天間基地の危険ということに絞り込んで、そしてその普天間の基地の移転というものが、毎日の事故等を心配する場合にどうしても必要なんだということを本当に力説されました。
たまたま何遍か沖縄に遊びに行った時に見せていただいていた場所ですから、大田さんのその話というのが非常に素直に私の耳に入ってきました。ただ、政府部内、初めての日米首脳会談の席上、この普天間の問題をテーブルにのせることは、賛成者は1人もありませんでした。
私自身が非常に迷いながらサンタモニカまで行きました。そしてむしろ色んな話をしておりますうちに、ビル・クリントンの方から、「龍、何か他に言いたいことないか、今、聞いておかなくてはいけないこと他にないか」と言われた時に、とっさに日本政府の要望という形ではなく、この沖縄県知事との会合の際に、沖縄県知事が本当に力を入れて私に説明したのは、普天間基地の返還の問題だと。その上で、これを口にする、日本政府部内は全員反対だと。それから、これが簡単に解決する問題ではないことぐらいは私も知っている。その上で、あの現地の気持ちを考えると、少なくとも日米両国の間でどういう解決策があるかを相談するぐらいのことはできればいいなと思いながらこの席に臨んだという話をしました。
私は、本当に今も非常にいい友人ですけれども、ビル・クリントンという男、非常に真剣にその話を聞いてくれたということをとても嬉しく感じました。そしてこの人なら、違った角度の話もできる、そう思ったことを今も鮮明に記憶しております。そして、同時に彼となら、その日米安保体制というものをもう一度根底から見直す。そして我々も気づきながら、長い間放ってあったいくつかの問題、これに取り組むことができるかもしれない、そんな期待を持つようになりました。
その感情が、クリントン大統領ご夫妻の公式訪問の際公表した、日米安保共同宣言。そして、そこから政府部内で開始いたしました、国内法を新たに作らなければいけない問題、現行法の中で対応できるもの、そして、その、有事立法を制定しなければできないもの、その問題の整理に着手することができました。私が総理在任中にその作業は完結いたしませんでしたけれども、一昨年の9月11日アメリカをおそった同時多発テロの後、あの作業をやっていなかったら、テロ対策法を作ることに、随分、遙か手前の方から議論し直さなければならなかったのではないだろうか。
今その意味では、私が日米安保共同宣言をクリントンとの間に発表できたことが、政治家として私自身がした、あるいは評価していただける仕事のひとつかもしれない、今そんな感じでこれを振り返っています。
この時、これはクリントン大統領だけでは決してありません。非常に我々が恵まれていましたのは、モンデール大使という方がおられた。そして、ペリー国防長官という方がおられた。そして本当にその、私自身が全く自信がないままに、政府部内の同意が得られないままに首脳会談で口にした普天間基地というものが、少なくともそれから動き出す、その動きを大統領の意志のもとに、モンデール大使とペリー国防長官が実現のために非常に誠実な努力をしてくださったということを、改めて私は強調しておきたいと思います。
それ以来の状況というのは、皆さんがご承知の通りであります。沖縄の、これは日本国ということを離れまして、地政学的な、国際情勢の中に占めるウェイト、これは今のような国際情勢になれば、なおさら高くなっているのであろうと私は思います。しかしその中でも、例えばSACOの合意に基づいて、あるいは色んな議論がその県内にもあることを百も承知しておりますけれども、海上に普天間基地を移そうという、その努力がされておりますのは、私は当時の信頼関係が今も残っているひとつの結果だと、そんな感じでおります。
ちょうど昨年の秋、久しぶりにビル・クリントンが日本で講演があるために東京に泊まった時に、空き時間がありました。二人きりで随分長い思い出話をしながら大酒を飲みました。そしてその時、彼もやはり普天間という言葉は覚えていた。そして私が辞任した後、その、沖縄サミットの際に、そして基地の状況をそれなりに見て、そして県民にも本当に大変だろうと思っているよと、まぁ、国際社会のために、やはり分かってほしいんだよね、ということを彼もその時点で話しておりました。
そしてちょうど自民社会さきがけ3党の連立で村山内閣をつくり、いったん野党を経験した私たちが村山総理を支える役割になったと、私は通産大臣を拝命いたしましたけれども、その時期にあの有名な少女暴行の事件が起き、久方ぶりに沖縄と本土政府、在日米軍との間に緊張関係が露出したと申し上げてよかったと思います。おそらく、高良先生なんかはよくご承知、現地におられたのかもしれません。あの県民大会がありまして、私はちょうど4極の通商大臣会合でロンドンにおりました。実はその前の状況をほとんど聞かないままに、いきなりBBCの2番目のニュースにあの沖縄の状況が映し出され、そして同じニュースを見ていた他の代表達からその説明を求められました。
それにしても、日米安保共同宣言をあそこでやっておいてよかったなぁというような、彼も非常に懐かしそうに、また嬉しそうに語ってくれたわけです。こうして私は沖縄という地域の重要性というのを、本当は一番早くに知り、国策の中に植え込んでいたのは、もしかすると日本よりもアメリカの方が早かったんじゃないかという気がしてなりません。
それにしても、日米安保共同宣言をあそこでやっておいてよかったなぁというような、彼も非常に懐かしそうに、また嬉しそうに語ってくれたわけです。こうして私は沖縄という地域の重要性というのを、本当は一番早くに知り、国策の中に植え込んでいたのは、もしかすると日本よりもアメリカの方が早かったんじゃないかという気がしてなりません。
それなりに調べてみて、例えばルーズベルト大統領と当時の中華民国の主席であった蒋介石との会話の中で、中華民国が沖縄を領有したらどうかという提案をされたことがあります。よくご承知の通りです。そしてその時に、蒋介石の方が、共同でやるならどうか、自分の所一国では、と断ってしまった。しかしこれは我々にとっては幸いなことでした。当時の中華民国の目から見て、沖縄の持つ戦略的重要性というものはそれほど大きくなかった、まぁ、私はそう解釈します。
しかしアメリカ自身もどこまで分かっていたのか、これは、正直よく分かりません。そして私の記憶に間違えがなければ、昭和16年12月8日に戦争が始まって17年の春には、アメリカの国務省の中で、日本の統治計画、戦後の計画というものの立案に着手している。そしてその中で、九州までの、奄美がどちらに入っていたかはちょっと忘れちゃいましたが、少なくとも、その、南西諸島、沖縄というものを、統治を分けるという案は当時から検討され始めていたんです。
そういう中で、日本自身は、第二次大戦中のその記録を調べていきますと、結局沖縄が重点になるのか、台湾が重点になるのか、最後まで判断がつかないままに戦争指導をしていたと。これは本当にそういう意味での戦略的価値観ができていなかったという以外の何物でもないでしょう。そしてむしろ戦略的な価値というものはアメリカが知っていた。それが沖縄の人々には本当に不幸な思い出を作ってしまうあの沖縄戦に結びついていったんでしょう。
その昭和20年8月15日に日本が降伏した時に、アメリカもその沖縄をどうするかについて結論が出ていたようには思えません。そして占領軍最高司令官としてのマッカーサーさんの範囲に入れるのか入れないのか、最後まで振れていたはずです。そして結局、直接マッカーサーの指揮からは、これをはずしたわけです。その時に非常に大きな決定の理由のひとつは、これはアメリカ側の参加者から教えていただくべきことなんですが、当時のソ連が北方領土、あるいは場合によっては北海道にまで手を伸ばそうという気配が、要するに、沖縄には絶対に手出しはさせないと。
日本本土の共同統治の中に一定の発言権は与えるにしても、沖縄は絶対にソ連の介入を許さない、こういう方針が決まったのは、21年になってからではないでしょうか。そうやってみると、実は、沖縄の歴史の中に様々な、それこそ本当に古代、中世、近世、現代、様々な事象がありましたけれども、あるいは、一番その価値を知っていたのはアメリカではなかったか。しかし、そのアメリカ、知っていたはずのアメリカですら、本当の価値は、戦争が終わって後になって分かった。
これはちょっと恥ずかしい話ですけれども、日本人自身が未だにその大きさが分かっていない、そしてその上で、本土の1人として、また政治家の1人として申し上げるとするならば、その結果沖縄の人々に負わせてしまった苦労というものが本当に理解できていない、ここに実はひとつの問題があるように私には思えます。
こんな生意気なことを言っていますけど、私だって実はそれが分かる訳じゃありません。私にとっては、自分が本当に一番かわいがってもらったいとこ、19年9月の戦死公報のために、礎に名前を刻んでいただけない、しかし、南西諸島において逝きたるという思い出がやはり消えない場所です。そうした中で、この「沖縄クエスチョン、そして日米同盟」という企画を立てていただいたことを、そして参加をいただいていることを、私は大変、こうした試みがなされること自体を、幸せな思いで今日ここに出て参りました。
30分はしゃべっていいと許可をもらったので、もうそろそろ終わりにしたいと思いますけれども、私はこの中から本当にいい結論が、そして両国政府に対するよい助言が出てくることを本当に願います。そして、現在沖縄県が求めておられること、そしてそれに対して政府が誠意を持って応え、実行のできることもある程度限られています。そして我々がアメリカ合衆国政府に対して求めることも、現実に難しいであろうなと思いながら、持ち込んでいる問題がないわけではありません。
しかし、その中のひとつでもふたつでも解決することによって、少しでも、その、沖縄にかかる負担というものを減らさないといけないという思いだけは、我々は失ってはならないように思います。ちょうど私が総理の時の参院選、全国を遊説しながら、沖縄の話を随分しました。ほとんど反応がなかった。私は本当に情けない思いで選挙を終わりました。
今回まもなく行われる衆議院選挙、これに対する争点としてメディアが取り上げているものの中に、外交とか安全保障というものはほとんどありません。たまにあれば、イラクに対する自衛隊の派遣はどうかといったような質問です。私どもの党の、私、あのマニフェストというものは大嫌いなんですけれども、あの中にも日米安全保障体制、そしてその中における沖縄をどうするのかとか、本当に突き詰めたものは何もありません。
伊藤さんはもうお止めになるからいいでしょうけども、民主党のマニフェストに至っては、全くそういうものがない。果たして、こんな国ってばあるのだろうか。イヤあの長ったらしい中には書いてあるぞ、でもそんなもん誰が読む(笑)。ポイントとして、全く出てこない、これ菅さんの顔ばっかだ(笑)。菅さんの写真が7,8枚載ってて、その分安全保障書いてくれればいいけど(笑)。
だけど私は本当に、今、我々が国民に問いかけなければならないのは、一昨年の9月11日以降大きく変化している国際情勢の中で、いかにして世界のためにも日本のためにも安全と安定を目指して努力するか、私は、今我々が応えなければならない、国民に対する一番の訴えは、安全と安定を求める努力。私はそう思っています。まぁ、そんなこと言ったって有権者は聞かないよって、地元のマスコミにも言われました。
しかし、私はそう思いますし、まぁ、政見放送のビデオを撮られました中、この安全と安定を取り戻す努力というものを、一番力を入れて訴えました。見方がどちら側から見るにせよ、私はそういう意味で、よい議論のできた好敵手の伊藤さんが今度、政界をなぜ引退されるのか、ただ単に衆議院に立候補を止めただけなのか、分かりませんけれども、願わくば議論の仲間にとどまって欲しい。そして、考え方が一緒である必要は決してないし、議論ができる友人が、1人国政から減ることを非常に寂しく思っております。
晃和さん!今日その席に伊藤さんを招いてくれて、本当にありがとうございました。おそらく彼は私より有益な話をするでしょう。今日は本当にありがとうございました。
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