国立感染症研究所 文化講演会
"政治・外交と現場からの視点"
講演風景 バイオセーフティー管理室視察
バイオセーフティー管理室視察 研究室の視察
今回、国立感染症研究所から「国際寄生虫対策(橋本イニシアティブ)と日本の国際医療協力」、−政治・外交と現場からの視点−(仮)と銘打って講演するようにとのご依頼があった。
総選挙の直前の依頼、無理だなと思ったがせっかくのお話、やれるだけやってみようと決心して、お話したいことの粗筋を作ってみた。
当日はこの原稿に適当に肉付けをして聞いていただいたが、専門家ばかりの聴衆に、果たして合格点がいただけたか、ちょっと心配が残る。その粗筋をご覧に入れて皆さんのご意見もいただきたいと思う。

1・現在、公共事業の無駄がよく言われる。その例示にしばしば挙がるのがコンクリートで固めた護岸工事に代表される治水事業、田んぼの側溝までコンクリートで固めたのは無駄の塊と言われるが、そういう議論をなさる方に、"日本住血吸虫"、あるいは"ツツガムシ病"という名前を尋ねると知らない方が随分増えた。中間宿主となる宮入貝の名前は無論知らない。
この宮入貝を退治するために先人の採用した方法のひとつがコンクリートで囲った側溝だった。

2・ 伝統的な日本の農業の中で、人糞を肥料としてきた結果、農作物を経由して消化器系に寄生する回虫、ギョウチュウなど土壌伝播寄生虫の駆除には国を挙げて努力。とくに第二次世界大戦敗戦後定期的な駆虫剤の投与は学校保健の大切な柱だった。

3・第2次世界大戦敗戦後の日本。海外よりの大量の帰国者、従来日本で普遍的ではない疾病が流行。 熱帯性潰瘍、アメーバ赤痢、マラリアなどが当時 小学生だった私の記憶にも残っている。
"さざえさん"の中にも法定伝染病による隔離処置、保健所の活動などが出てくるくらい、各種感染症は身近なものだった。

4・その情況が落ち着き、昭和50年代の初めに何十年かぶりに和歌山県有田市でコレラが発生したとき、大騒動が起きた。

5・そのころには日本の医学教育自体が、豊富な栄養と恵まれた環境の中の医学になっていたのではないだろうか?

6.79年、カンボジア動乱の際、某大学の現役教授を含む日本より派遣した医療チームはほとんど何も出来ないまま、米軍の軍医の指揮下に入らざるを得ず、ほうほうの体で帰国し、厳しい批判を浴びた。高度な医療機器を駆使し、豊富な栄養状態の中での患者の診療のみを続けていた日本人ドクターには、栄養不良と結核が並存し、その上感染症に罹っているような患者に対し治療の方法が無かったと思われる。むしろ何処から手を付けてよいかの判断自体ができなかったのではあるまいか?同じことは外科的な患者についても同様で、たとえば対人地雷のために複数の傷を負っている患者にどの傷から手当てを始めることが生存に直結するか、複雑骨折の手足を切断することによって生存を確保するなど、その現場は想像を絶したようである。

7・私自身、70年、ミャンマーでの遺骨収集のおり、デング熱にかかり、強引に帰国したものの原因が分からず、虎ノ門共済病院の南方戦線での軍医経験を有するドクターの診断を受けるまで高熱を発した原因は分からなかった。 69年、パプアニューギニアにおける遺骨収集の折にはアメーバ赤痢をエンテロヴィオフォルム一瓶で治したが、スモンの原因としてキノフォルムが特定されたときにはびっくりした。

8・皮膚科学会がずいぶん以前からタイにおいて第3国研修を指導しておられることに敬意を表する。

9・縁あってネパール医師会の名誉会員、ネパール小児医会の名誉会員となったのが84年か85年、そのころから日本の医学、日本の経験を途上国に移転することの大切さを痛感している。

10・73年秋のエヴェレストに挑戦した第2次RCC登山隊に参加して以来、93年の日中合同のナムチェバルワ遠征まで相当の数の遠征にもぐりこんだ。ネパール、チベット等キャラバンの途中で、患者を連れて来られ、現地の人々に手持ちの医薬品で簡単な治療をよく行ったが、日赤の救急講習、ボーイスカウトとしての救急医療研修以外の経験はなし。手持ちの医薬品は国内の薬局で手に入るもののみ。しかし生まれて初めて近代的医薬品を飲む患者には大衆薬でも強烈な効果を発揮する。

11・84年以降カトマンズにあるネパール唯一の小児専門病院であるカンティ・ホスピタルに関わり始めたが、そのかかわりの中で、ごく初歩的な指導だけでも乳幼児死亡率を低下させることが出来ること、しかし、わが国ばかりではなく、先進国の支援がややもすると高度な部分に目が行きがちで、基本的なことを見落としているケースが多いことに気付かされた。

12・日本の総理として、デンバー・サミットで寄生虫対策を取り上げた背景には、政治的な立場や駆け引きではなく、将来にわたって何か基本的な部分で日本としても役割を果たしたい、出来ればG7各国が足並みをそろえてくれれば 大きなうねりになるのではないかという期待が有ったから。このときもうひとつ提起したのは、先進国の社会保障制度の現況を、各国の反省点をも踏まえて途上国に移転しようという呼びかけだった。双方とも、事務方には事前に相談をかけなかったが、これは関係省庁が複数にわたり、中々結論が出ないことが予想されたからである。後で案の定、怒られた。

13・後者はその後"アジア太平洋諸国"を対象にして沖縄でフォーラムを開催したが、私が辞任した後は誰も関心は無いようだ。ちなみにそのときの主催閣僚は小泉総理、当時の厚生大臣であった。

14・デンバーでは他の首脳たちが寄生虫自体をまったく知らず、その結果、翌年のバーミンガム・サミットまでに良く分かる資料を日本が用意するということで落ち着きました。

15・首脳たちの議論はややもするとたとえば新興再興感染症ひとつを議論してもエイズ、マラリア、結核という風にその時話題になっている特定の病名からその先に発展しないということが問題ではないでしょうか?

16・敗戦後の日本が、比較的短期間で寄生虫対策にしても感染症対策にしても大きな成果を挙げえた陰にはいくつかの対策が並行して行われていったことがあげられると思う。
特に、基本的に初等教育の普及がしっかりした識字率を生み、衛生思想の普及を支えていたことがあげられると思います。また簡易水道をふくめ、水道の整備が着実に行われたこと、保健所のネットワークが地域衛生の水準を確実に高い状態で維持したことは特筆すべきことです。開業医たちが日本型のホームドクターを形成し、国民皆保険に支えられながら高い医療水準の恩恵に国民が何時でも浴することが出来たことも評価すべきことです。
もうひとつ挙げるとすれば、50年代半ばから急速に進んだ農村における台所改良に代表される生活改善運動です。

17・今年の夏、北京を訪問した折に中国の胡錦涛主席との会談で"SARS"について、わが国はまだ公衆衛生的分野の体制整備が遅れていると述べられたのが印象的でした。変な病気だと思ってもそう思った医師がそれをチェックする体制が無い、そうしみじみ嘆じる主席の言葉が印象的でした。

18・では、日本には反省すべきことは無いのか?最大の反省点とは環境破壊ではないのか?
土壌伝播性寄生虫はほろぼしたが、農薬と化学肥料の大量使用が、本来土を活性化してきた昆虫やバクテリアを死滅させては来なかったか?
日本住血吸虫の中間宿主となる貝を殺すための農薬はそれ以外の水生生物を絶滅に追い込んでは来なかったか?
用水路をコンクリートで固めてきたことも同じ問題を提起する。

19・我々は成功の記録を伝える以上に、失敗の記録を途上国にきちんと伝える責任がある。記録という言い方より"我々の経験を伝える"ことが大切と言い換えよう。
ケニアで、岸田さんという一人の日本人女性がご自分の生まれ育ったふるさとの記憶を生かし、かまどを作ること、わらじを作り、履くことを地域の女性に教え、その結果台所改良が進み、感染症や寄生虫症を減少させ、結果として女性の社会参加の道を大きくする成果を生んだ。

20・われわれは人類がかって我々が犯したと同じ失敗を二度と繰り返すことは望まない。われわれの失敗の経験を生かしてくれれば、そこに我々の新しい喜びが生まれる。 (以上)


橋本イニシアチブとは

総理時代の1997年アメリカ・デンバーサミットで感染症の一部である寄生虫対策への国際的な取組について、日本の寄生虫対策の成果を発展途上国の予防対策に役立てたいと提唱した。翌年の1998年のバーミンガムサミットで再度国際寄生虫対策の重要性を説き、サミットのコミュニケに「感染症及び寄生虫症に関する相互協力を強化し、これからの分野における世界保健機構(WHO)の努力を支援すること。…」と示された。

アジアとアフリカに人造りと研究開発のための拠点をつくり、寄生虫対策の人材養成と情報交換等を向上させていく、「橋本イニシアチブ」を提案。その結果、アジアのセンターとしてマヒドン大学熱帯医学部に「国際寄生虫対策アジアセンター」が創設。2001年9月にはタイ、ミャンマー、ウェトナム及びケニアからの研修生が参加をし国際寄生虫対策アジアセンター国際研修開講式が行われた。