「アフリカとガバナンス」
WSSDウブントゥ村にて
平成14年8月31日
写真
 
photo エシーAU議長、
ジンワラ南ア下院議長、
ご列席の皆様

(序)
 本日、栄えある南アフリカ研究所と日本国際問題研究所の共催による「アフリカとガバナンス」のセミナーにおいて基調講演をするようにと申しつかりましたことは、大きな名誉であるばかりでなく、大きな喜びでもあります。と申しますのも、アフリカに関心を抱き続けてきた一人として、アフリカの未来を築いていく上で最も重要なテーマはガバナンスであろうと常々思っており、そうした中でアフリカの指導者達が『アフリカ開発の新しいパートナーシップ(NEPAD)』を発表し、そこでまさにガバナンスの重要性を強調されたからであります。
 前回南アフリカを訪問し、『二十一世紀に向けたアフリカと日本のパートナーシップ』について基調講演させて頂いてから、はや三年七ヶ月が流れました(注:前回は南アフリカ国際問題研究所の主催行事)。当時は、いわゆる西暦二千年を目前にして、どうすればよりよい二十一世紀を築いていけるか、そのような熱気が地球のあちらこちらで感じられていました。
 その時の講演で、私は、一九五九年にアフリカ大陸を公式歴訪していた衆議院議員だった父の思い出に触れながら、自立しようとしている新しいアフリカへの敬意を表し、国づくりにおける国民の教育と保健の重みや環境配慮の重要性、国際関係における平等の重要性などを強調させていただきました。また、世界中が対等な関係にあるべきだと信じた日本が、第一次世界大戦後のパリ講和会議において人種平等を当時の新しいワールド・ガバナンスの一角に据えようとして孤軍奮闘したことなどをお話しました。
 あれから、九月十一日の攻撃が起きて、国とは何か、国際関係とは何かが大きく問われることになろうとは、当時日本の外交最高顧問であった私にも残念ながら予想できませんでした。

(1.九月十一日と国家)
((1)伝統的国家論)
 一年前の九月十一日、私たちの国家についての基本的認識が大きく揺らぎました。国家とは、権力、領土という空間、国民という人間という三要素からなっていると私たちは信じてきました。ところが、そのいずれも持たない非国家主体があのような規模の殺戮を行い、しかもその方法たるや無実の一般市民の乗った民間航空機を武器に仕立て、無実の一般市民の働いている民間のビルディングをターゲットにした、私は大きな衝撃と怒りに身が震えました。あの事件によって亡くなられた方と行方不明になられた方は三千四十八名となり、国籍はすべての大陸に及びました。なお、このうち日本人は二十四名です。
 その怒りの中で、あの攻撃は国家権力の最大の特色である暴力装置の独占を奪ったと言う意味も持っているのではないかと考えたのです。仮にそうであるとした場合、今日の私のガバナンスについての基調講演をガバナンスが行われるべき場、すなわち国家そのものをどう捉えるかと言うところから始めさせていただきたいと思うに至りました。
 アフリカの独立闘争の父と呼ばれたクワメ・エンクルマ氏は、独立闘争時代の手記に、『一体自分はアシャンティ王国の独立闘争か、それともブリティッシュ・ゴールド・コーストの独立闘争か、そのいずれを闘っているのだろうか?』との悩みを書き綴っています。このエンクルマ氏の悩みは、国家の本質を突いたものだと思います。かつては繁栄を誇ったアフリカの多くの王国が外部勢力の侵略によって、政治・経済・社会面での時間的・歴史的展開を中断させられるにいたったことは、今日のアフリカのガバナンスを考える上で不幸な出発点だと言わざるを得ません。もとより、歴史に『もしも』と問うことは禁物とは重々承知しておりますが、国家の構成三要素たる権力・領土・国民のいずれにおいても、『もしも』一体感とか忠誠心と言うものが歴史の流れの中でぐつぐつと煮詰められてきた、或いは醸成されてきたといったほうが適当かもしれませんが、そういうプロセスがアフリカでもずっと中断せずに続けられて、新興アフリカ諸国の国造りの出発点になっていたとすれば、独立後の国づくりはもっと自然体で行われのではないでしょうか?そうだとすれば、結果として無意味な内戦、無意味な独裁、そして無意味な権力腐敗が回避されえたのではないかと考えられます。残念ですが、歴史はそのような恵まれた運命をアフリカに用意してはくれませんでした。しかし、ついに、新しい今日の世界状況は、新しい状況展開をアフリカにもたらすのではないかと期待しています。この点について若干敷衍させていただきます。

((2)ウェストファリア条約型国家への拘泥と決別)
 アフリカ独立闘争が行われていた頃、私は法学部の学生でしたが、独立の概念上の目標は『民族自決』であったと記憶しています。それが先ほど述べたエンクルマ氏の悩みにつながるわけで、結局エンクルマ氏はご存じのとおり、『ブリティッシュ・ゴールド・コースト』の独立しか現実にはありえないと決断しました。これはアフリカにおいては、実態的には『民族国家論』が当てはまらない状況のもとで国づくりをせざるを得なかったことを物語っています。
 このように考える過程で、どうも私にはヨーロッパが国際社会の主役になった十八世紀以降、国家と言うものは一六四八年のウェストファリア条約型国家、いわゆる民族国家でなければならないという『思い込み』が世界中で強くなりすぎていたような気がしてなりません。もとより、ウェストファリア条約はヨーロッパにおいてローマ法王と神聖ローマ皇帝の二重権力構造が支配した国際関係から、民族をベースとする国を単位として構成する国際関係への転換点とみられていて、その重要性はいささかも否定されるべきものではありません。しかし、民族国家論というものが直ちに世界中すべての状況に適応したものであるかという点には疑問があります。
 いずれの国にも、その国の歴史と時の流れに伴う展開と重みがあります。先ほど申し上げましたように、アフリカではその展開が外部勢力によって中断されたわけですが、その過程で人的資源の数千万人とも言われる強制的流出があったことには、深い同情を禁じ得ません。これは後の植民地勢力による勝手な境界線設定という事態と共に、アフリカの国づくりを考える上で複雑な要素を作り出したと承知しています。一九六〇年ごろ独立を達成した多くのアフリカ諸国が、国家の一体性を生み出すために必要以上の苦労を強いられたのにはこうした歴史の重みによる面も強かったのだと思います。
 なお、念のため申し上げますが、当時のアフリカの指導者達がこうした点に悩みながらもアフリカ統一機構(OAU)において大陸に混乱をもたらさないために既存の境界線を出発点とすると決定したのは、当時の状況下では英断だったと思います。
 このような歴史的ハンディキャップに加えて、一九六〇年以降のアフリカが冷戦の代理戦争に突入したことや、一次産品の市場戦争に上手に対応できなかったことが、状況を一層悪化させたと考えられます。
 しかし、ようやく新国家の建設四十年を過ぎて、今大きなチャンスがアフリカに訪れているのではないでしょうか。
 それは、第一には一九八九年に冷戦に終止符がうたれた結果、外部勢力のアフリカ大陸への介入が実に数世紀ぶりに終りを告げようとしていることです。
 第二に、独立当時のスローガンであった『民族自決』の考え方と、それとは実態的にずれがあるアフリカ諸国の『現実』について、冷静に判断できる客観情勢が生まれていると考えられます。ややステレオタイプ的に申し上げれば、ウェストファリア条約型の民族国家と言う形を過度に追い求めた結果として、独立当初には人工的な国家の一体性を強く求めざるを得なかったのに対し、今日では、南部アフリカのサデック(SADC)を始めとする地域的な協力が進み、一国の国境線の中だけで経済・社会建設を考えなくても良い、言わば国境線の社会・経済面での相互浸透圧といったものが考えられる状況になってきているのではないでしょうか?
 仮にこれが正しいとすれば、先ほど来申し上げてきたアフリカの負う歴史的ハンディキャップを越えた、新しい前進が図られるのではないかとの期待が生まれます。私には、これが『アフリカ連合(AU)』誕生の一つの背景だと思えてなりません。この機会に、第1回AUサミットの成功に敬意を表したいと思います。また、本日ご出席のエシーAU議長のご指導のもと、AUが発展していくことをお祈りします。

(2.為政者と国民)
((1)市井の人々)
 さて、以上のように、アフリカに新しい歴史上のページがめくられたとするならば、今改めて経済・社会建設の担い手は誰かと考える必要が生じます。
 日本では、天然資源が殆んどなかったこともあって、古来より、国づくりは人づくりから始まると言われてきました。古い話をして恐縮ですが、三つほど日本の歴史の中でガバナンスに関連するエピソードを紹介いたします。
 今から千五百年程前、アフリカで古代ガーナ王国が栄え始めていた頃(注:古代ガーナ王国の起源は四世紀説が有力:英国の歴史家バジル・デビドソンによる)、日本では仁徳天皇という天皇の治世下で、次のようなエピソードが残されています。ある日、天皇が宮殿の高殿から町を見渡すと、どの人家からも煙が上がっていないではありませんか。人々は貧しさのあまり食事の用意をするための火もつけられないのではないかと考えた天皇は、以後三年間にわたって課税を止める詔を出し、その結果やがて民の生活は再び活気を取り戻しました。天皇は、天が君主をたてるのは民衆の生活を守るためだと考え、民衆が富んでこそ自分も富むのだと述べたと伝えられています。
 こうした考え方は、西暦六〇四年に制定された日本最初の成文憲法にも受け継がれ、貧しい人からの訴えにこそ配慮すべきであるとか、農繁期には公共事業に無報酬で国民を使ってはならない等と記されています。
 武士と民の関連では、二本松という地域を治めた丹羽高寛(にわ たかひろ)公が城の入り口の大きな石に次の文言を彫らせて、部下の武士達をいさめたことが知られています。
   爾の俸 爾の禄は
   民の膏 民の脂なり
   下民は虐げ易きも
   上天は欺き難し
 実は、この二本松には日本の青年海外協力隊の研修所があって、この八月から初めて南アフリカに派遣されることになった隊員達も、この教えを心に刻んでいるのです。
 さて、このような為政者の善政にまつわるエピソードはどこの大陸にもあることだと思います。アフリカでも、例えば十三から十四世紀のマリ帝国における公正な税制、治安の良さ、女性達が男性に互して商売に活躍したこと等は、よく知られています。このように考えて参りますと、市井の人々が夢と希望をもって人生を全うできるようにする、これが結局は国の発展につながっていく、このように考え実践していくことが要するにガバナンスだということではないでしょうか。
 これを今日の状況の下で具体的に考えてみれば、何よりも平和でかつ安全な社会で、法を犯さない限り逮捕されたり財産を没収されることがないという安心感があること、これが市井の人々が夢や希望を抱ける最低限の条件だと思います。人々は、明日とか来年とかを見通しうる状況に置かれ、子供達への教育という形での投資や、経済的な意味での投資を行いうるでしょうし、健康にもパートナーにも気を使えるようになると思います。
 健康と言えば、このアフリカ大陸で私はヨハネスの小児病院、ケニアの中央医学研究所(KEMRI)やガーナの野口博士記念医学研究所等を訪問させていただいたことがあります。子どもの健康、国民一人一人の健康は私のライフワークでもあり、長年G8サミットでも保健分野の旗振り役を勤めさせていただきました。その成果の一つは一九八九年バーミンガム・サミットで提唱しました寄生虫・感染症対策で橋本イニシアティブと呼ばれておりますが、その中で特に途上国同士が経験を共有したりお互いに学ぶことも大切だと考えました。具体的には日本の支援でケニヤとガーナでは周辺国の政策立案者や専門家を対象に研修を行っており、タイのマヒドン大学医学部では近隣国のみならず、アフリカからも専門家を招いて研修を実施しています。これについてはこのウブント村の日本国際協力事業団(JICA)のブースで展示を行っていますので、ご覧いただければ幸いです。
 さて、国民が希望をもてるようにすることは政府の重要な役割でもあります。国民が教育を受けること、国民が健康な人生を送れるようにすること、国民が政治や経済に参加できるようにすること、これは一見簡単なように聞こえましょう。しかし、その実現のためには人的資源も資金的資源も割かねばなりませんし、それには例えばきちんとした徴税制度が機能することが前提となりますし、さらに政策の優先順位を決めるという意味を持つ国家予算を策定する際に透明性や説明責任が確保されることも必要になります。そのためには法令を整備することや、法令を執行する体制、さらには司法制度の確立も不可欠です。
 今日、ガバナンス論がなかなかに難しいテーマとなっているのは、以上申し上げましたように、ガバナンスの実現のためには包括的なアプローチが必要である反面、国によっては次のような厳しい現実に対峙しなければならない状況にあることに起因しています。それは、例えば、紛争が終わったばかりであったり、紛争の火種を抱えていたりすること、あるいは複数政党選挙を実施するにも経費が不足して国際支援を仰がなければならない、また議会を構成する議員をサポートする体制がまだ出来ていない、さらには市場経済の円滑な発展に不可欠な金融制度が必ずしも十分に機能していない、ひいては国の各地をつなぐ交通インフラが殆んど整備されていない等の厳しい状況です。

((2)なぜ行政改革に全力を尽くしたか)
 このように申し述べますと、ガバナンスはいわゆる開発途上国のみの問題であるかの印象を与えるかもしれません。ところが、実は日本においても、広い意味でのガバナンスの問題が生じてきました。それは、一八六八年の明治維新によっていわゆる国家の近代化が行われて大きく国家の機構が変わり、さらに一九四五年の敗戦を期に再度大きな変革があったのですが、20世紀も終わりに近づいてくると、社会の構成一つとってみて大きな変化が生じていることに起因しています。例えば、かつては日本でも「人生わずか五十年」と言われていたのが、今日では世界一長寿の女性八十四歳、男性七十八歳になり、また百歳以上の人口は統計を取り始めた一九六三年に百五十三人でしたが二〇〇一年には一万五千四百七十五人になりました。これは長寿という観点からはまことにめでたいことですが、他方で経済・社会の仕組みがまだそれほど長寿でなかった時代のままですから色々不都合も生じています。また、産業もグローバル化の進展と共に工場を日本以外にどんどん移していくといったの現象が起きました。
 私が総理として六年前に行政、経済構造、金融システム、財政構造等の改革を陣頭指揮したのはこうした理由によるのです。このうち、行政改革について申し上げれば、平均寿命が五十歳代の時代ならばうまく機能した仕組みも人生七、八十歳の時代では動きません。
 国家とは何かという切り口からこのことを考えますと、私は国の機能を大きく四つに分けて考えられると思っております。
 第一に、国の存続のための機能で、防衛、外交、安全保障、治安と法秩序の維持、財政などです。
 第二に、国の富に関するものです。経済政策、産業政策、社会資本整備、科学技術振興などです。
 第三に、国民生活の保障で、福祉、医療、保健・衛生、労働などです。
 第四に、教育や国民文化の継承・醸成です。
 私が目指した行政改革は、このような機能をいかに能率よくかつ簡素に果たすかと言う観点に立って、役所の数を半減しました。近代日本が誕生して以来国の業務として来た仕事も見直し、民間に移したり、地方自治体に移しかえたものもあります。
 その上で、お国に尽そうという、夢多き優秀な若者たちがのびのびと、はつらつと働ける環境をあわせ醸成することにも意を用いました。ガバナンス論で見落とされることも多いようですが、公務員や司法官たちが生きがいを感じながら仕事できる環境を整え、維持することはガバナンス遂行の重要な要素だと考えています。 
 
(3.AUとNEPAD)
((1)アフリカと紛争)
 さて、アフリカのガバナンスを考えた場合に、最も厳しいケースに触れないわけには参りません。それは紛争です。確かに冷戦期間中はいわゆる代理戦争をさせられていた国も多く、せっかくの独立も苦しみをもたらしただけではなかったのかとの同情を禁じえなかったり、あるいは旧ポルトガル植民地のようになぜこうまで次から次に紛争地になってしまうのだろうと旧宗主国問題に行き着かざるを得ないケースもあり、重ねて同情を禁じ得ません。
 しかし、アフリカの紛争を今一度よく観察した場合に、その多くが国内の紛争であることに気がつきます。これは、今申し上げた冷戦の体制合戦と言うケースもありましょうが、一九八九年以降のポスト冷戦期の紛争は、イデオロギー闘争の切り口からは説明がつきにくいものです。民族グループ間の対立、或いは地元民の意思とは別に外部勢力がいわば移住者を入植させたシェラレオネやリベリアのケース、或いはこれに鉱物資源が絡むケース等が指摘されてきました。
 他方で、サブサハラ・アフリカでは南アフリカを除いてはピストル一つ自国で製造できる国は存在しません。大陸の外の誰かが武器を売らない限り、紛争手段の武器はこの大陸には入らなかったはずです。ところがどうでしょうか、かつての冷戦時代の武器が今なお残っていると言うだけでは説明しきれないほど多くの武器がこの大陸にあふれているのではないでしょうか?しかもこの大陸は外貨が足りなかったり、対外債務に苦しんでいたりする国が数十カ国もあるのではなかったでしょうか。貴重な外貨が、正規貿易か闇貿易かを問わずこの有り余る武器の購入のために使われているのだとしたら、これはガバナンス以前の、いえさらに言えば国づくり以前の深刻な問題なのではないでしょうか。武器の輸出を行っていない日本からみると、以上申し上げたことにはかなり強い感情を有しています。売る側についても、買う側についてもです。
 逆に、勇気付けられる展開もあります。南アフリカの仲介でコンゴ民主共和国の紛争に光明がさしてきたことはその好例です。マンデラ前大統領の大湖地方でのご努力にも敬意を表したいと思います。また、新たに生まれたアフリカ連合(AU)が、OAUの紛争予防メカニズムをどのように発展的に引き継いでいくのか、良い結果を期待しています。
 なお、本日ここに出席されているジンワラ下院議長が活躍されている人間の安全保障委員会の関連で申し上げれば、先般日本政府は人間の安全保障基金を通じて三〇九万ドルの支援をシェラレオネの戦闘員社会復帰のために提供したと承知しております。

(2)自立と協同 
 さて、アフリカ連合の誕生について一言申し上げます。外から拝見しておりますと、グローバル化がますます進む中で、アフリカは正面きってグローバル化の波に自ら立ち向かい、さらにこの波にアフリカも乗るとの決意を表明された、これがアフリカ連合の持つ世界的な意味ではないかとの印象をもっております。
 こうした決意と『アフリカ開発のための新たなパートナーシップ(NEPAD)』の発表とを組み合わせて考えますと、アフリカのリーダーの方々はアフリカの『オーナーシップ』を真剣に考えかつ実践していこうとの決意であると拝察いたします。今回の『持続可能な開発についてのサミット』が、このような決断をされたリーダーたちによって、これまでの一部の国連の開発会議とは一味もふた味も違った、行動志向かつ自立の精神に満ち満ちたものとなることを期待して止みません。
 持続的開発の実現は難しいものです。それは開発と環境の両面を達成しようとするわけですから、国の政策の中でのプライオリティー・セッティングを慎重にしていくことが求められます。これもしかし、未来の世代により良い国、ひいてはよりよい地球を受け継がせていくためには避けて通れないことであります。私がこのことを申し上げるのは、ガバナンスの中で環境問題についてはつい忘れられがちになりやすいということ、またとかく自国のエゴが出やすいということがあるからです。
 今から十年前になりましょうか、大蔵大臣をしていた頃、私はG8サミット会合で日本の戦後復興の過程における公害体験を示し、実際に起きた公害をベースにコスト・ベネフィットを研究した資料を配って環境問題の重要性を訴えたことがあります。今回のWSSDでは、このジャパン・パビリオンで、日本の公害経験についてのビデオが放映されつづけています。これは、日本があの完膚なきまでに叩きのめされた第二次世界大戦の敗北の灰燼の中から再び国づくりをやり直した過程で、わき目もふらずに働いたこと、その結果大きな繁栄に辿り着きはしたが、しかし人命を含む大きなコストを公害問題という姿で払ったことを、途上国の真の友人としてお知らせしたいと関係者一同で考えたからであります。今日の法令の知識と技術を活用すればこの過ちを繰り返さないで済みます。その鍵は各国の政治意思と、国際協力にかかっていると思います。
 ヨハネスブルグに参りました日本人一同は、途上国の人々への友情の証として自らの失敗の歴史をすべてさらけ出して、どうかこの同じ過ちを繰り返さないで頂きたいと、強く祈っています。国づくりの過程で、日本がたどった道とは異なるいわば『別の道』がありうるのではないでしょうか。もとより日本の官民とも新たなパートナーシップ論の中で、必要に応じた協力は当然いたしましょう。
 また、私が議長を勤めている『アジア太平洋環境開発フォーラム』でも各国政策の中における環境政策の位置付けの重要性について訴えております。
 
結び 
 ガバナンス、これは言うは易く行うはかたい典型的な難問かもしれません。しかしガバナンスなくして発展なし、ガバナンスなくして幸せなし、これもまた事実ではないでしょうか。ガバナンスの推進における政治家の責任は重大であります。もとより、その実現のためにも市井の人々の力も重要であります。
 こうして突き詰めて考えていくと、先ほど申し上げたように、平和と安全を築いた上で、教育と保健、そしてジェンダーといった基本的なことをひとつずつ積み上げていく、これが遠回りなようでも、結局はゴールに辿り着く道だという気がしてなりません。
 その過程で、人々がよその世界を知る、また人生の他の選択肢を知る手段としての通信技術、さらには自らの考えを発信する方途としての通信技術、これを身につけることがいかに大切であるかとのジンワラ議長が日ごろから説いていらっしゃると伺っております。議長の主張に敬意と賛意を表したく存じます。ます。
 知識、選択、発信、決断。アフリカでもこのようなガバナンスのキーワードが、ゆっくりではあるかもしれませんが、着実に向こうの角を回って近づいてきていると私は強く信じております。そのためのアフリカの決意が揺るがぬことをお祈りしながら私の話を終えさせていただきます。