麻布学園PTA文化講演会

夢を持て、夢を追え」

1999年11月13日

本題

きょうはお招きをいただきまして、本当にありがとうございました。(拍手)  
  
  昭和三一年高校第八回卒業、橋本龍太郎です。   
  そして、きょう改めて考えてみたら、この講堂の壇の上に上がるのは、きょうが初めてだな。そして、本当はもう一回上がったことがあるのですが、これは私たちにとっては本当に思い出したくない、私どもが高等学校三年のときに起きました中二の相模湖遭難事件だな。その祭壇をつくるときに上がったなと、今ここに来ましてそんなことを思い出しました。  
  
  そして、その意味では、私たちが学生でいたときから、一番変わったなと思うのが、相模湖記念館が記念室になった。そして、今でも覚えている鯨井とか、高山とか、門叶とか、本当にかわいがっていた後輩が、今も写真として残されていて、先ほどちょっと頭を下げて久しぶりに会ってきました。  
  
  しかし、その記念館が、麻布がだんだん大きくなるにつれて、そのスペースを別なことに使う。そして、記念室に変わっていく。やっぱり随分時間がたったんだなという思いがしてなりません。  
  
  しかし、そういう点では、もう一つ、この前久しぶりに、同級生でした安部譲二という希代の悪太郎と一緒に麻布を訪ねたとき、二人が異口同音にいったことは、中庭の桜が大きくなったなということでした。そして、考えてみれば昭和三一年(一九五六年)卒ですから、もう半世紀近く前に麻布を離れた。そうすれば、桜だって育つよ。大体おまえの頭の毛だって相当薄くなっているじゃないか、(笑)そんなやりとりをした。そういう意味では、大変懐かしく思い出しています。  
  
  そういうふうに変わったところもありますけれども、時計塔は変わりませんし、麻布全体が持っている雰囲気も、きっと私たちのころから変わっていないだろう。そして、変わっていないでほしい、そう思いながら、ここに立ちました。 ただ、先ほど校長先生に申し上げ、またPTAの会長さんにも申し上げたんですが、実は「文化講演会」などという名前がついているとは思いませんでした。文化を語るには大変不向きな商売ですし、麻布時代を振り返っても、退学にはなりませんでしたけれども、停学を食ったり、譴責を食ったり、しょっちゅう黒板に名前を書かれていましたから、困ったな、ためになる話は余りない。しかし、私たちがそのころ麻布で何を学んだか、そして、それがその後、自分の中でどう変わっていったか、きょうはそんな話を聞いていただいて、同時に、現役の諸君にも、私たちが持ったと同じような自分の夢を持ってもらえる、そんな学校であってほしいと願いながら、ここに立つことにしました。  
  昭和三一年卒と申し上げましたけれども、中一に入りましたときは昭和二五年です。そのころの日本は、まだ敗戦の痛手が癒えるどころか、この麻布の中にも校舎が焼け、礎石だけが残っている部分もありました。そして、この界隈にも、随分たくさんの自然も残っていました。何よりも、まだ日本は占領下でした。そして、占領軍の命令には全く逆らえない国でしたから、やりたいことがすべてできる時代ではありませんでした。  
  そして、今のようにテレビがあるわけでもない。当然テレビゲームがあるわけでもない。中学生、高校生は、勉強が好きな人は別ですけれども、私たちのように勉強が得手でなかった者にとっては、本当に思い切りスポーツでもする、表で思い切り暴れるしかエネルギーを発散する場所がありませんでした。  
  
  そして、考えてみると、私たちよりもうしばらく後まで、そういう気風は残っていたように思います。たまたまこの前、作家の北方謙三さんがある場所で対談をしていらっしゃるのを読んだのですが、彼は芝高です。そして有栖川公園まで出張ってきて、麻布の生徒にけんかを売って、勝つと帽子を取り上げて、それを二〇も三〇もためたと威張っていました。(笑)その二〇人目か三〇人目かぐらいになったら、生徒ではなくて、体練科の先生が出てきた。多分そのころの先生のお顔を思い出してみますと、柔道の強かった森田先生か、あるいはタッチフットの監督をしていた近藤先生あたりじゃないかと思うんですが、北方さんも、先生が出てきたからけんかを売るわけにいかない、取り上げた戦利品の帽子も返すことにした。そうしたら、先生が帽子の裏側を見ては、この子もやられたのか、この子もやられたのか。(笑)そのときのインタビュアーが非常にひどい人でして、「その帽子の中に橋本龍太郎というのはなかったですか」と聞きました。(笑)幸いに私はありませんでしたけれども、そんな話を北方さんがなさるぐらい、実は学生同士のけんかはまだスポーツの延長線みたいな時代でした。時々すり傷をこさえたり、鼻血を出して詰めをかったりして家へ帰っても、別に親も余り心配はしない。そんな時代でしたから、今とは随分違ったと思います。  
  
  なぜ麻布を受けたか。私の両親が、公立に進めたのでは、この子は何をしでかすかわからぬ。私学の伸び伸びとした空気の中で勉強させた方がまだいいだろう、まさに麻布というものが持つ私立のよさを思って、麻布の受験を勧めてくれたようです。  

  振り返ってみると、それは確かに理由のないことではありませんでした。ちょうど第二次世界大戦に日本が負けたときが、私にとっては小学校二年生でした。その後、占領軍が入ってきてから、日本の義務教育課程の内容が難し過ぎるということで、例えば算数も二年ぐらいレベルをずらしたはずですし、それに伴って、ほかの教科も編成が随分変わりました。公立の小中学校は、そういう連合軍の方針でぐらぐら変わる授業内容の影響をまともに受けていたわけです。それだけに、それこそ麻布が創立されたころからの先生方がまだ残っておられて、私学のよさで、よい先生方をほかから迎えることができた。そういう麻布というものを、私の両親のどちらかが見つけ、勧めてくれた。そして、入学ができたことを、今振り返ってみると大変幸せなことだったと思っています。  

  そのころの麻布は、今もきっと変わらないと思いますけれども、本当に先生として生涯慕える、人生の先輩としてご交際をいただけるような先生がたくさんおられました。この中にもご存じの方もあるかもしれませんが、例えば中一の一組をずっと担任しておられた海野先生という国語の先生も、人格者として大変すぐれた先生でしたし、ちょうど高一のときに早稲田の理工学部の教授を退官されて、母校の麻布に帰ってきて数学を教えてくだすった梅原先生、そういうすばらしい先生たちが確かに麻布にはおられたんです。  
  
  ただ、この梅原先生の授業は、我々にとって悩みの種でした。何しろ大学の理工学部で教えておられた先生が、そのまま高一に来られたわけですから、レベルがまるで違います。いまでも覚えているんですが、高一の一学期の実力テストで、その先生はいきなりラテン語で問題を出されました。(笑)実は我々は、それがラテン語だということ自体がわからなかったのです。(笑)  
  
  ところが、麻布という学校のすごさは、そのラテン語で出された数学の問題で満点を取ったやつが二人いました。まあ、嫌な野郎どもです。(笑)その後でその二人に、「どうしてわかったんだ。問題が読めたのか」と聞いたら、「いや、読めないよ。だけど、出てくる数式を見れば、こういうことを答えるしかないと思って書いたら、合っていたんだ。」その一人が今、阪大の応用物理の教授であり、日本の応用物理をリードしている一人である長島順清君。そういう意味では、めちゃくちゃな先生もおられました。また、それについていける生徒もいたということでもあります。私は当然零点でした。(笑)とうよりも、あのときは半分以上零点だったと思います。二題出たんですけれども、一題は解いた連中が三分の一ぐらいいました。満点を取れたのは、長島と菅原という二人だけでしたが、考えてみると、こんなひどい試験はありません。
 
  あるいは、同じように早稲田の国文の教授から、やはり定年を迎えられて麻布に帰ってこられた先生の中で、一年間、一度も休講がなくて、『源氏物語』の講義をされて、ついに「桐壺」一章を終わらなかった先生があります。(笑)話がどんどん横にずれちゃう。そのずれていく方がこちらもおもしろいものですから、一生懸命ずれさせるようにすると、どこまでも行っちゃう。ですから、私どもは『源氏物語』をきちんと学んだことになっていますが、実は一年がかりで「桐壺」一章が終わりませんでした。  

  今果たして麻布が、またこれは特に父兄の皆さんが、そういう先生の存在を許すだけのゆとりをお持ちかどうか、私にはわかりません。しかし、少なくともそういう先生方が、私たちにとってそれからのいろんな人生の指針をつくってくださいました。  

  あるいは東京農工大の学部長までされた数学の田中宗信さん、第二次大戦中の東京帝国大学で航空機の設計に従事するつもりで進んでおられたのが、敗戦で飛行機をつくるどころではなくなって、麻布の先生になられた。この先生は、「先生、休講にしましょう」というと、いつでも休講にしてくださる。ただし、きょうは何ページから何ページまで授業をしたことにするよ。そうすると、結局、試験のときには一回も教わったことのない問題に直面をしなければならない。(笑)先生は休講して何をしているかというと、ポンコツ屋に行って自動車の部品を買ってきて、もともと飛行機の設計をしていた方ですから、今のように自動車が自由にたくさん買える時代ではありませんから、手づくりで自動車をつくっちゃった。その作業場に講堂の裏側を使って、その部品を磨いたりするのに生徒を使って平然としていたんですから、考えてみれば、これもひどい話です。(笑)  

  あるいは、今も日本画壇で活躍をしておられる川崎春彦先生、東山魁夷さんの義理の兄弟ですが、これも日本画の大家です。美術の先生でした。しかし、だれに聞いても美術を習った記憶がありません。私は、その先生に柔道とたばこの吸い方を教えていただきました。(笑)トランプを教わったやつ、酒の飲み方を教わったやつ。校長先生、まさかああいう先生は今いないでしょうね。世の中変わっておりますから、どうぞたばことお酒の指導だけはしないようにしていただきたいと思うんです。(笑)  

  しかし、そういう先生方が、我々にはやっぱり本当にすてきな先生でした。そして、つい先日も、その近藤先生や、佐々木テンパとあだ名をつけておりました天然パーマの国語の先生、川崎先生、何人かの先生方を囲んで、随分楽しい時間を持つことができました。  

  私は、麻布のよさの一つは、上級生、下級生を通じた横のつながりが持てるという私学独特のよさだと思う。その中に、先生方が入っていただける。考えてみると、そのころ年が随分開いていたように思う。今私たちがちょうど六二歳ですから、先生方が七〇を少し過ぎられて、七〇半ばぐらい。かつて大変な年齢の差があるように思っていたものが、その差がなくなっています。私は、そのゆとりというものが存在したことが、麻布の一番のすばらしさだったのではないか。そして、どんな仕事になっても、生涯交際をやめたくない先生方に恵まれた、これが一番大きなことではなかったかなと思っています。  

  ただ、これは今だからいえることです。そのころは、本当に嫌な、おっかない先生ばかりでした。いたずらをしてはしかられ、カンニングをして見つかっては立たされ、先生の弁当を食べちゃっては親が呼び出され、(笑)悪がきの限りを尽くしていました。  

  しかし、先ほど控室で校長先生たちとお話しをしていたんですけれども、今よく聞くいじめだけは、我々の時代に聞いたことのない言葉でした。例えば安部譲二君にしても、同級生のだれに聞いても、彼が弱い者いじめをしたという人間は一人もありません。けんかっ早い、腕っぷしの強い、私より暴れん坊でしたが、むしろ彼が逆に体の弱い何人かの生徒をかばってきた記憶は持っていますし、その体の弱い同級生がほかの学校にいじめられたりすると、飛び出していってそれをかばっていた一人が安部譲二でした。それは何も安部譲二だけのことではありませんでした。いじめというものを全く知らず卒業できた私たちの世代は、あるいは幸せだったのかなと今思っています。  

  私は、兄弟が少なかったものですから、自分の子供はできるだけたくさん欲しいと思っていました。おかげさまで女の子三人、男の子二人、五人の父親になりました。今一番下の子供が高校二年、ことしの春からベルギーのリェージュの方に、ホームステイで一年間行っています。その子供たちに聞いてみると、やっぱり彼女たち、彼らは、学校で結構いじめられたことがあったようです。親の仕事が仕事だけに、評判が悪いときには子供にも随分影響が出たようですが、(笑)「よく我慢したな」といいますと、「兄弟が多いから助かった。助け合えた。だから、別にいじめられていることを親に訴えなくても済んだ」という答えが返ってきて、兄弟が多いというのはそういうところでも助かるんだな、よかったなと思いました。

  そういう時代ですから、みんな勝手な夢を見ていました。例えば私は本当に剣道がしたかったし、同時に、一生に一度でいいからヒマラヤに挑戦したいというのが、そのころの夢でした。実は今になると、もう歴史のかなたになっていますけれども、敗戦の後、占領軍がとった措置の中に、「柔道と剣道の禁止」という項目がありました。子供のころに、少し剣道の手ほどきを受けたことがありまして、小学校の上級生になれば剣道ができる。私はそれを本当に楽しみにしていました。  

  ところが、敗戦の後、夏休みが終わって学校に行った途端に、私たちは、学校にありました剣道具、柔道の稽古着、あるいは銃剣術の木銃を焼き捨てさせられました。なぜ焼き捨てなきゃいけないのか、わかりませんでした。そのたき火の中から私は木刀を一本抜き取って隠したんですけれども、先生に捕まって、またその木刀を火の中にくべさせられました。そして、剣道の面の金の部分だけが焼け残ったものが、後でキャッチャーミットに改造されました。そのころから、剣道は本当にやりたかったんです。 ところが、たまたま麻布には剣道関係者がおられなかったために、敗戦後しばらくたって、ちょうど私どもが中二の終わりごろに、柔道は課外活動として認められる。私は、そのときには、仕方がないので柔道をしていました。そして、私たちが高校に入るころには、剣道も課外活動は許されていたようです。しかし、麻布がその情報を知ったのは、私どもが高校二年の夏でした。夏休みが終わって、早速剣道部をつくりたいとお願いを学校に出しましたところ、剣道部をつくることは認めてやるけれども、ただでさえおまえは成績が悪い。来年受験なんだから、おまえは剣道をやっちゃだめだといわれまして、(笑)私は剣道部の創設者ではありますけれども、実はやっと剣道ができたのは慶応大学に入ってからのことです。子供のときからずっとやりたかった剣道を、ここでやっとやれるようになりました。  

  今、その剣道はいろんな意味で私を助けてくれています。ことしになりましても、私は剣道具を担いで海外に二回出かけました。一回はネパール、二回目はハーバードと慶応のニューヨーク高校で、ハーバードには立派な剣道部があります。そして、よい先生がおられる。熱心な剣道部員たちがたくさんいます。ちょうど十月の半ば、彼らと稽古をしてきました。  

  そして、あさって私はモスクワに行くのですが、これも表の口実は剣道です。今、剣道の人口は随分ふえました。モスクワだけでも四〇人ぐらい、オール・ロシアですと三〇〇人ぐらい剣道をしている人たちがいるでしょうか。このところ、ロシアの政局もガタガタし、日本の方もガタガタしているものですから、日ロの間の話し合いが少し間があいてしまいました。そして、ロシアの国内で、日ロ関係が少し忘れられそうになってきました。何か工夫をしなければいけない。たまたまきょうとあす、モスクワで全ロシア剣道大会が開かれていて、それにいい先生方に日本から四人ほど行っていただいて、審判をしていただくと同時に、あさって、しあさってと講習会を開きます。その講習会に私も講師の一人として行くという口実で、剣道具を担いでモスクワに行くわけですし、事実、剣道をするんですが、実はロシアのマスメディアのトップの人たちとの時間をかけた懇談、その懇談の中から、ロシアのマスメディアに日本との関係の問題をもう少し取り上げてもらえるような空気をつくってくる。それが今度の目的ですけれども、不自然でなく行けるそのきっかけは、剣道のおかげでできました。  
  
  考えてみますと、去年もたしか九月、私はモスクワで剣道をしていました。あるいは、例えばフランスのパリに、フランス人の剣道家が経営している道場が三つぐらいあります。そういう意味では、あちこちの国に、自分の夢で、やりたいと思っていた剣道を通じて、いろんな仲間をつくることができます。そして、調べていくと、例えばロシアの指導者の中でも、一時期総理をしていたキリエンコさんは剣道です。あるいは皆さんもご記憶だと思いますが、数年前、在ペルー日本大使公邸人質事件が起きました。そのとき、最後まで人質になっており、救出のときに負傷されたペルーの外務大臣のトゥデラさんも、今国連大使でニューヨークにいますが、ニューヨーク慶応高校の剣道部と一緒に剣道をやっている。そうやって見ると、仕事の上だけではない。剣道を通じて二重三重に友達をつくっていける。これは喜びと同時に、メリットもある。剣道という夢を追っていてよかったな、今私はそう思っています。  

  しかし、そのころ、もう一つ、本当にこれは夢だろうなと思っていましたが、何とか一度でいいからヒマラヤに挑戦したいというのが、私たちの大変強い夢でした。そして、前田一夫君という、私にとって本当によい、大事な友人でしたが、ヒマラヤを夢見ながら、丹沢とか、八ヶ岳とか、あちこちを二人で歩いていました。前田君は登山家としては私より確かに少し上だったんです。私は慶応に行きましたけれども、彼は北大の山岳部に入りたくて、北大を受けました。一年浪人して北大に行ったんですけれども、本当に優秀なクライマーでしたから、北大が日本アルプスの春の全山縦走を計画したとき、二年生になるところでしたが、一人だけそのメンバーに選ばれ、結局、奥穂高から前穂高に行く途中のつり尾根で遭難しました。  
 
  私は、その知らせを剣道の遠征で行っている香川県の高松で聞きまして、そのころですから飛行機があるわけでもない。新幹線があるわけでもない。高松から夜行でとにかく東京へ戻ってきて、そのころの麻布の同級生たちと連絡をとりながら、捜索チームをとにかくつくり、翌日、上高地に入りました。三日後に遺体を発見し、自分たちの手でそれをおろし、松本から検視のお医者さんと警察官に上高地まで入っていただいた。春の上高地は、釜トンネルの上からはまだ二メートル以上の雪に覆われています。ですから、普通の交通手段はありません。当然歩くだけなんですが、入っていただき、自分たちの手で霞沢のふもとでその遺体を荼毘に付して、お骨にして持って帰ってきました。本当にいい仲間でしたから、彼を亡くしてしばらくの間は、山に近づく気持ちになれませんでしたし、また歩き出したときにも、もう一人だれか仲間をつくろうという気にはならなくて、随分長いこと、単独行ばかりを続けていました。  

  その私が、ヒマラヤに挑戦したいという夢を果たせたのは、昭和四八年、三六歳になったときです。当時、第二次RCC(ロック・クライミング・クラブ)という山の仲間で、まだそのころ、モンスーン明けのエベレストにはだれも登っていなかったものですから、モンスーン明けのエベレストに日の丸を立ててやろう。できれば、そのころまだだれも登れていなかった南壁から直登してやろうという計画をつくりまして、準備に入りました。これは実は事故すれすれの登山だったんです。結果としてはシェルパを一人亡くしましたが、モンスーン明けのエベレストに人類として初めて登るという記録を、私たちの隊はつくれました。国会の都合で私は本隊より大分おくれてベースキャンプ入りをしまして、しかも、ベースキャンプ入りをした翌日に、そのシェルパを亡くした大雪崩で途中のテントを二つ飛ばされまして、それ以上、上には行けずに帰りましたが、これがヒマラヤに挑戦できた初めてでした。  

  それ以来、一九八四年、日本山岳会創立八〇周年記念カンチェンジュンガ縦走を考えたとき、その隊長にさせていただき、八八年、これは本当にばかなことを考えたと今では思うのですが、同じエベレストをネパール側とチベット側から一度に登り出して、「こどもの日」、五月五日に頂上で握手をして、登ってきた反対側におりるという計画を、多少酔っ払っていたせいもあるのですけれども、(笑)中国登山協会の諸君と新疆ウイグル自治区の旅をしているときに思いつきまして、ネパールに声をかけたら、ネパールもやりたいという。三国合同の登山隊をつくりました。やっぱり同じ時間に頂上で握手するというのは無理でした。しかし、八八年五月五日の「こどもの日」に、ネパール側からもチベット側からも、両方とも頂上に到達し、反対側に下るという計画自体は成功しました。  

  このとき、ただ登るのはばかばかしい。やったことのないことをやろう。エベレストのてっぺんから通信衛星を使って、登頂の瞬間と、その頂上からの景色を世界じゅうに放映してやろうということを考えまして、やったら、うまくいきました。ところが、これは麻布ではないんですが、某私学の高等学校の先生の隊員が一人おりまして、我々にも隠して、内緒で小さな校旗と、こいのぼりと、生徒の寄せ書きをエベレストの頂上に持ってきまして、ザックをあけて何かごそごそしていると思ったら、テレビカメラの前で自分の高等学校のコマーシャルをやりました。(笑)やはり私学は経営が大変なんだなと、そのとき思いました。実はその男も、それからしばらくして、植村直巳が死んだマッキンレーでやられました。  

  植村もそうだったんですが、そうやって見ると、山の仲間は随分たくさん亡くしたな、あいつらは惜しいことをしたなと思う連中がたくさんいます。その中に、私にとっては中学、高校の仲間だった、そして本当にザイルの相棒だった前田一夫君という同級生をいまだに忘れることはできません。 忘れられない理由が、実はあります。たしか高二だったと思いますが、ちょうど鹿島槍の冬山を、高校として極地法で登ろうという計画を立てまして、その訓練と称して、屋上の屋上からザイル降下をやろう。非常に怖い三年生がおりまして、「前田、橋本」といわれたものですから、おり始めました。ちょうどおりていく途中に時計がありまして、せっかくここまで来たのだから、何か記念を残そうと思って、針に一生懸命に名前を彫りました。(笑)私は、手近にあった長針の方に彫ったんですが、前田は一生懸命に手を延ばして短針の方に名前を彫りました。そのときに時計がずれたのを気がつかなかったんです。  

  翌日、学校に出てきましたら、時計が全然あさっての時間を指している。それを用務員さんが直された。そのときに頭文字が彫ってあったものですから、ばれまして、先ほど申し上げた、いつも一年一組を持っておられた海野先生という、当時副校長クラスでおられた先生に、前田と私は呼びつけられました。麻布で食った小言は随分ありますし、いろんなことでしかられた回数はあるんですけれども、前田にも私にも一番忘れられない小言は、そのときの海野先生の小言でした。  

  ふだんは穏やかな、とてもおとなしい先生だったんです。そのときも、別に普通でいえばそんなに怖くはなかったのかもしれないんですが、そのとき海野先生からいわれたのが、「おまえたちは好きでやっている。おまえたちが落ちてけがしたって、悪くして首の骨を折って死んだって、それはおまえらの自業自得だ。しかし、おまえたちがやったいたずらの結果、それを直さなければならなくなった用務員さんのことを考えてみろ。別に山の訓練をしている方ではない。その用務員さんに何かがあったら、おまえたちはどういう責任をとるんだ。自分がやることの結果を考えてからやれ」、この小言は本当にこたえました。もっとも、結局懲りずに、それからもいろんないたずらをしていましたけれども、少なくとも僕らがやったことを直してくださる方に危険が及ぶようなことをしてはいけないんだ、結果責任がとれること以外はすべきじゃないんだということは、本当に骨身にしみました。今考えてみても、私は大変すてきなお小言だったと思っています。  

  こんな仕事をしておりますと、人を厳しく注意しなければならないこともあります。しかし、怒られる理由を相手にきちんとわからせるように怒ることはなかなか難しいことですし、いわんやそれが一生残る教訓となるような人の怒り方は大変難しいものだ。そう思うようになりましてから随分時間がたちましたが、それだけに、海野先生の「結果責任」というものについての厳しい警告、「おまえたちの行動で用務員さんの命にかかわるかもしれない。その責任をおまえたちはとれるのか」といわれた、あの言葉だけは今もしみついています。すばらしい小言でした。  

  ただし、後で母を呼び出されたのは非常に困りました。しかも、母がそれを父に告げたものですから、二カ月、小遣いを停止されまして、(笑)これは非常にひどい目に遭いました。  

  ただ、なぜこんな話をするか。実は私たちのころには、まさにみんながいろいろな夢を持っておりました。  

  先ほどラテン語の試験問題で満点を取った長島君の名前を出しましたが、彼は本当に物理が好きで、物理の先生になるんだといい続けていて、本当に応用物理の日本でも有数の先生になられて、国際的にも高い評価を受けています。夢には、こういう夢もあると思います。私たちのように、スポーツの世界で夢を見る、これもあるでしょう。全然違った分野で、自分なりの夢を追っている諸君は、今もたくさんおられると思います。  

  私は、その諸君に、夢を持ってほしいし、その夢を追って努力してほしいし、その夢に挑戦する勇気を失わないでほしいと本当に思います。同時に、きょう父母の皆様がたくさんおられますけれども、ご自分のお子さんが持つ夢を、どうぞ親が抑えないでいただきたいと思います。親の目から見れば、荒唐無稽な夢もあるかもしれません。しかし、子供の人生は子供のものであり、親のものではありません。助言は必要です。しかし、その子が自分の夢を追おうとするとき、これをとめてはならないと私は思います。むしろその夢にその子供が本気で取り組み、自分が実現のために全力を尽くすように指導していただきたいと思うのです。  

  今そういう意味で、若い人々の中にだんだん夢がなくなったといわれています。私は、ボーイスカウトですし、今全日本学生剣道連盟の会長をしていて、学生諸君と顔を合わせることも決して少ない方ではありません。話しておりますと、確かに彼らは、私たちのときのような荒唐無稽な夢を追う子は減ってきたように思います。それ以前に、夢を追うのではなく、夢を持とうとしていない子供がふえている。それもある程度実感としてわかります。現役の生徒諸君の胸の中に聞いてみれば、みんなそれぞれ何か夢はあるはずです。音楽なのかもしれません。あるいはもっと単純ないたずらめいたことかもしれません。その夢は、私は何でもいいと思うのです。  

  しかし、自分の夢が持てない若い諸君は、やっぱり哀れです。そのかわり、自分で夢を持ったなら、その夢を実現するために全力を尽くすだけの努力も、現役諸君に持ってもらいたい。それは必ずしも一〇〇%かなえられることばかりではないでしょうが、夢というものがなかったら、人間はおよそつまらないと思います。学校が生徒に夢を持たせることができないとすれば、私は、学校はただ単に「生きた本箱の製造機」にしかすぎないと思っています。  

  私たちが学んだ麻布の先生方は、それぞれが本当にその夢を追う可能性を与えてくれました。その夢に挑戦することを激励もしていただきました。私の仲間はいたずら小僧ばかりでしたから、ほとんどが運動の夢を追った連中ばかりです。  

  しかし、その夢の中で、例えば当時の麻布は、タッチ・フットボールでは常に関東を制していました。高校選手権で麻布は常に関東の覇者であり、新年のライスボールの前に、西日本代表と甲子園で勝負を争ってきました。関西勢には、関学さんとか、関大附属とか、大学と一緒に練習のできる諸君がたくさんありましたので、残念ながら、全日本の壁を突き破ることはできませんでしたが、それでも大学とつながっていない麻布の中で、関東を制する力だけは持っていたのです。あるいはバドミントンで国体に出ていく仲間もありました。ラテン語の試験問題で満点の取れるような仲間もおりました。本当に個性の豊かな子供たちが、夢を追えるようにしていただいた麻布は、すばらしい学校であった。今もそうであるに違いないと思っております。  

  どうぞ校長先生初め先生方が、将来、その生徒が五〇、六〇になっても、先生に対する思い出を忘れず、時にお招きをしてともに語り合うことを楽しみにするような先生方であっていただきたい。現役の諸君には、できるだけ多くの夢を持っていただきたい。父母の皆さんには、その子供たちが夢を追えるようなゆとりを与えてやっていただきたい。そんなことを思いながら、「夢を持て 夢を追え」というきょうの題を選ばせていただきました。  

  与えられました時間がちょうど参りましたので、私からの話はここでとめさせていただきます。ご清聴に心からお礼を申し上げますとともに、これからも麻布がよい学校であり続けるように、それはいわゆるいい子を育てる学校ではなく、本当に自分で自分の夢を追っていけるような子供たちを育てる学校であってほしいと心から願い、ご来会各位のご多幸をお祈りして、私の役割を終わらせていただきます。  

  きょうはありがとうございました。(拍手)

Q&A

○司会 ありがとうございました。 生徒さんもいらっしゃっておりますので、質問などをお受けいただきたいのですが、よろしいでしょうか。

橋本 余り難しいのはだめですよ。

○司会 生徒さんの方で、何かご質問のある方。

○質問者A お話の中にもありましたように、本校ではたばこの問題が時々取り上げられるんですが、近年またたばこの問題が持ち上がってまいりまして、それを解決するのはどのようにするのが一番よろしいと思われますか。(笑)

橋本 それは在校生がOBに聞く話じゃないぞ。(笑)むしろ隣に校長先生がおられるんだから、PTA会長もおられるんだから、君たちが先生方、場合によっては父母会の皆さんに入っていただいて、そこで話し合って決めるべきなんじゃないかな。殊に教育の世界に僕らみたいな政治家が余り介入しない方がいい。(笑、拍手)

○質問者B 橋本先生の夢の中に、首相になるというものは含まれていなかったんですけれども、どうして政治家を目指されたんですか。(笑)

橋本 全然目指してなかった。というよりも、僕は今でも本当に繊維が好きですし、繊維の仕事で自分が生きていこうと思っていました。綿紡績がいいなと思って、その綿紡績の中で、慶応の先輩がいるとうるさいですから、先輩の一番少ない、工場所在地が山に行きやすい会社、そうしたら、呉羽紡という会社が出てきました。私はその呉羽紡に希望どおり入れてもらって、紡績会社の現場、それから営業の仕事をしていました。
  ところが、私の場合、父親も政治家でした。その父親が本当に予想もしない五七歳という年齢で死にました。ほかの方に地盤をお譲りして、家族は後ろに引いたんですが、半年ぐらいたって、その方が立候補しないことになって、結局、母かおまえか、どちらかが出ろといわれたものですから、そのころ二五でしたけれども、法定年齢ぎりぎりだし、二五でしくじってもやり直しはきくだろうと思って、「それじゃ、私やります」といったら、それっきりずっとここまで続いてきちゃった。(笑)だから、首相になるなんて夢は、大体政治家になろうと思っていなかったもの。  予定どおりだったら、今ごろ君のお母様にすてきなきれを一生懸命に売りつけていたはずだ。(笑)だから、そういう夢は狂うよ。(笑)

○質問者C 橋本さんも思い出がある屋上なんですけれども、ここ数年、麻布生の非行というか危険な行為とかによって、屋上が今閉鎖されているわけでして、一部の生徒が屋上委員会として活動して、開放しようという話が持ち上がっています。まだその成果は上がっていないんですけれども。そういう人たちもいるようなんですけれども、もし橋本さんが学生だったころにそういった閉鎖があった場合は、橋本さんはどうされたでしょうか。  
  あと、そういったとき、率先して開放を目指す立場にあったなら、できれば教師の攻略のポイントなどを教えていただければと思います。(笑)

橋本 その非行というのが何を意味しているのか、僕は具体的にわからない。実は、屋上の屋上は、僕らのころも先生方から見るとしばしば問題だったんです。というのは、授業中に後ろのドアから抜けて、携帯燃料で飯盒でごはんを炊いていて、僕も捕まったことがあります。(笑)たばこを吸っていて見つかったこともあります。  
  ただ、そのころ、そういうのは本人はみんな物すごく怒られましたし、それから後しばらく屋上の屋上に登らせないように、先生方が厳重に見張っておられましたけれども、屋上の使用禁止という方法は私たちのころにはありませんでした。  
  ただ、それに近い騒ぎが一回あったのは、先ほど時計塔の方におりた話はしたんですが、実はその反対側で、ご近所に見える方向でザイル降下をやったとき、これは私が主犯じゃないんですけれども、ご近所から「大変危険だ」という物すごい抗議が学校にあったようです。このときはご近所の反応が余り激しかったものですから、逆に我々の方が、しばらく自粛しました。それと同時に、当時の麻布には随分悪知恵のある先生方がおられて、屋上の屋上に登りそうなやつを指名して、屋上の屋上を使わせないような見張りをさせられました。(笑)私の一年上に、今東京福原フイルムスの社長さんをしている近藤さんという先輩がおられます。これは山の方のがき大将です。その近藤さんとか、僕たちよりもやりそうな人が見張り番になっていましたから、その見張り番の方の腕がいいので、結局、余り問題になるようなことはできなかった。ですから、そういうやり方もあるんじゃないかなと思います。(笑)  
  中には、大変気の強い体練科の先生で、僕たちが登ったコースから屋上の屋上に上がってこられようとして、反対側からザイルをおろして、おりて逃げたことがあります。 結局、それで問題が起きれば、自分で責任をとれるか、さっきいったそこにかかってくるんじゃないかなと僕は思います。その結果がみんなに迷惑をかけるということであるなら、むしろこれは使用停止が続いても仕方がないと思うし、自分で責任がとれるなら開放し、そのかわりほかの諸君にも一定のルールの中で行動するように、仲間同士で議論をしていく、そういうことが大事なんじゃないでしょうか。

○質問者D 麻布は競争主義を採用していて、かつ、義務が多いように僕は思うのです。小テストの直しを出さなければ白点にされ、また、出たくもないような授業にも出ないと白点にされてしまう。それで、私は義務の多いこの学校にちょっと疲れてきたんです。(笑)麻布を何とか改革しようと先生にも話したりしたんですが、人間性は学校では育成できないとかいうふうにいわれたりもしまして、今この学校を出るべきかどうか考え始めたのです。そうしたら、当然大学などにも行けなくなるでしょうが、それを押してでもこの学校をやめるべきではないかと思い始めたのです。そこで、どうすべきかアドバイスをお願いします。(笑)

●橋本 今の質問に思ったとおりの答えをしていいかい。思ったとおりの答えをしていいとすれば、勝手にしろというよ。(笑、拍手)そのかわり、僕は、君は物すごく苦労すると思う。今の麻布がどの程度厳しいか、それは知りません。君が不必要だと思う授業はどういう授業なのかもわかりません。僕ら自身、例えば『源氏物語』の「桐壺」しか終わらないなんて先生の授業は、おもしろかったけれども、必要か不必要かといえば、余り必要ではなかったのかもしれないし、現に当時、父母会からは、受験に役に立たないということで、その先生は物すごく評判が悪かった。しかし、この年齢になると、逆にその先生が教えてくれたものは、ただ単に教科書ではなかった、自分で物を考えることを教えていただいたと、僕は今感謝しています。  
  だから、君が、そういうものがこの学校にないからやめるべきだと思うなら、それは本当に君の判断です。しかし、君が思い描いているような学校は多分ないだろう。それは大学に行くとか行かないとかいうことではなくて、君が麻布を嫌ってやめて、君の人生でどういう夢を描いて、何をしようとしているのか。それによって全く違うんじゃないだろうか。例えば何か専門の分野を持って、それを追い続けるとすれば、一つだけの知識で万全などというものはない。今「学際」という言葉があるように、学問と学問の境界部分がいろんな意味で問題になる。そういう多様化している中で、君がどういう自分の人生を組み立てようとするのか。それによって、まさにこれから追っていこうとする自分の夢、自分の人生に麻布が全くこたえてくれない学校だったのなら、別の道を選べばいいと私は思うけれども、恐らくそんなに君の思うとおりのものが与えられるばかりではないと思うよ。厳しいかもしれないけれども、僕はそう思う。

○質問者E 僕は、橋本さんと同じように、名前が龍太郎というんですけれども、(笑)初めまして。僕は、今まで自分の名前に結構誇りを持っていたので、橋本さんは自分の名前を今までどう思っていましたか。(笑)

橋本 習字の授業のたびに、何でこんなに字画の多い名前を選んだんだと思っていました。それ以外では、僕はこの名前はとても好きでした。  
  たまたま私の父親は八人兄弟の男の五番目で、龍伍という名前でした。その龍伍の長男だから龍太郎という、親は実に単純につけたらしいんですが、習字のときに字画が多くて悩んだのを除けば、いい名前だなと思っていました。(笑)

○質問者F 僕も今、学校の成績が余りよくなくて、ふだんはここら辺のビワの木に登って、ビワを食べたり、新宿御苑に夜に忍び込んで、一人じめだなんていって、そういう悪さばかりしているんですけれども、合気道が好きで、週に三回、道場に通っているんです。来年高校三年生なんですけれども、合気道部をつくろうと思っているんです。先輩として何かアドバイスなどありましたらお聞かせください。

橋本 それは、僕はすごくいいなと思う。それが本当に出てきたら、学校にもできるだけ考えてあげていただきたいと思います。その上で、今麻布の中を僕はよく知らないけれども、練習のスペースは大丈夫か。練習場所が確保できないと、なかなか認めてもらえないぞ。だから、逆にいえば、君と同じように合気道をやりたいという仲間が何人ぐらいいるのか。その仲間が練習できるだけのスペースを学校の中で使わせていただけるかどうか。  
  それよりも、正式に部をつくろうとするんだったら、その指導者になっていただける方があるかどうか。これは剣道部をつくるときにも、実はひっかかりかけたのです。たまたま「金太郎」というあだ名をつけた先生が剣道を少しやっておられた。後では大分開いちゃいましたが、スタートしたころには、生徒より少し強いぐらいの先生だったけれども、その先生が責任を持ってくださるということだったので、剣道部は認められました。それでも体育館の使用時間を確保するのは、そのころでも結構大変でした。ほかの部とその辺の調整を済ませて、剣道部の創設願を出して、受理していただけました。
  だから、一つは、学内に君と同じように合気道をやりたいという希望者が何人ぐらいいるか。スペースはあるか。そして、指導に当たっていただける指導者が得られるのか。学内で得られないとすれば、外からどういう方が指導に来てくださるのか。やはりその辺をきちんとして学校に出さないと、学校としては責任が負える、結構ですという返事をいただくのはなかなか難しいかもしれない。  
  その中で一番の問題点は、いい指導者を見出せるかということです。殊に麻布の中におられない場合に、外から指導者を迎えることができるのか。外から迎える場合には、その先生に対する謝礼をどうするのかとか、いろんな問題が付随して出てきます。  
  例えば、今私は三田剣友会、慶応剣道部のOB会の会長でもあります。そして、外部から二人の師範を迎えています。その師範の先生たちにお支払いするお礼は、OB会が責任を持って集めています。時々出したがらないやつもいるので、それは脅迫しますけれども、(笑)それでも幸いに慶応の場合に、部ができてから長いものですから、OBの数もあり、二人の師範の謝金を集めるぐらいは、本当に学校に心配をかけずにできています。外から先生方をお招きするとなると、学校側にはそういう点まできちんとした上でなければ、許可が出せないということがあることは、あなたもわかってください。

○質問者G 先ほど教育の分野に政治家が口を出さない方がいいという発言があったと思うんですけれども、それはただの冗談なんでしょうか。(笑)それとも、政治家というのはそういう商売なんでしょうか。(笑)

橋本 これはまじめに答えますけれども、麻布は長い間、OBでも政治家を学校の中の問題に余り関与させませんでした。私も政党人です。政党というのはそれぞれの考え方があります。しかし、それを学校の運営とか、学校の中に持ち込むことは、いいことだとは私は本当に思っていません。また同時に、教育が政治に左右されてはいけないと思います。私学はそれぞれに建学の精神を持っている。その建学の精神が私学の魂なんです。  
  麻布では、これまでにもいろんな危機がありましたが、私たちがお手伝いをしようと思ったときにも、それは学校として、父母会とご相談の上で、丁重にお断りをいただくのが常でした。ただ一回だけ、余り思い出したくない事件ですけれども、山内事件というのが起こりました後、私学振興財団、文部省と麻布学園が話し合わなければならなくなったとき、その仲介だけは私たちはいたしました。それも仲介であって、我々に麻布の中のことに口を出せとは、学校はいわれませんでした。  今、私は慶応の評議員の一人です。しかし、そこで話すときには、私はOBの一人として話しており、政治家としての話をしたことはありません。私は、私学というものはそういうものだと思っています。  
  それぞれの学校が、自分の学校の建学の精神をもとにして、それに向けて全力を尽くして指導を行っていくべきですし、それをサポートしていくのはOBであり、父母会ですが、受け継いでくれるのは現役の諸君です。政治という形で学校に介入すべきではない、これは私は冗談でいったのではありません。本気です。(拍手)

○司会 どうもありがとうございました。ちょうど時間となりましたので、この辺できょうの講演会は終わらせていただきたいと思います。(拍手)