20世紀の教訓と21世紀のビジョン」

2000年2月21日

基調講演:二十世紀の教訓と二十一世紀のビジョン

一.はじめに
  本日は、タタ・エネルギー研究所創立二十五周年の記念会合にお招きをいただき、お話をする機会を得ましたことを誠に光栄に思います。
  二十世紀最後の年である本年、悠久の歴史を持つここインドにおいて、二十一世紀における持続可能な発展を考える催しが、世界各地からの参加者を得てかくも盛大に開催されましたことに対し、深い意義を感じ、感動を覚えるものであります。 
  日本は、古来よりインドから仏教をはじめ多くの文化を学びました。また、第二次世界大戦後、インドから友好の証として日本の動物園に贈られた象のインデラは、敗戦に打ちひしがれた子供達に希望のひかりを与え、ネルー首相の優しい笑顔とともに多くの日本人の心に記憶されています。私自身も、一九五七年十月、母校、慶應義塾大学に在学中、この大学を訪れたネルー首相が図書館の二階のバルコニーから演説されたのを、庭を埋めた学生の一人として感動しながら聴きましたことを昨日のように覚えています。ネルー首相の演説は、ナショナリズムと世界のヒューマニズムとの調和を訴える、大変、先見の明のある内容でした。
  その後、公職を務める中で、私自身、インドには何度か訪問し、その文化や生活に触れる機会がありましたが、その度に、社会の豊かさとは何か、人間の幸福とは何か、そして人類の発展とは何かということについて常に考えさせられてまいりました。
  その意味で、本日、私が「二十世紀の教訓と二十一世紀のビジョン」についてお話することとになりましたのも何かのご縁であろうかと思います。もとより、これは身に余る大きなテーマでありますが、私の経験を基にいくつか私見を述べたいと思います。

(基本的な認識)
  はじめに、地球に関する基本的な認識について申し上げたいと思います。率直に申し上げて、私は世界の現代文明が現在向かっている方向に対して深刻な危惧を持っております。  
  その理由は三つあると考えています。  
  第一に、二十世紀の後半から現代に至る文明は環境を破壊する規模とスピードが人類史上経験したことのない大きさとなってきていることです。  
  第二に、そのような状況の中で地球的規模の環境破壊が現実のものとなってきたにもかかわらず、私たちは、その環境破壊を効果的にコントロールする社会経済的システムを未だ確立していないということです。
  第三に、もし人類が地球環境の保全に失敗した場合、宇宙の中で人類が住める場所はもう存在しないという事実です。
  したがって、持続可能な発展を実現することは二十一世紀の政治家にとって最も基本的な、最も緊急を要する政治的課題であると私は強く認識しております。

 

二.二十世紀を生きての教訓
(一)二つの世界大戦と国土の破壊  
  二十世紀を振り返ると、それはまず「戦争と平和」の世紀でありました。二十世紀は二つの世界大戦を経験しました。私は、敗戦の時八歳でした。中国の古い詩人は、敗戦の情景を見て「国破れて山河あり」とうたいましたが、一九四五年、日本においては、都市が焼け跡と化していただけではなく、山河も荒廃していました。戦争中、木材を大量に切り出し、それに植林が追いつかなかったからです。戦後の日本の復興においても、さらに森林は切り開かれ、治山・治水は大きな課題となりました。  
  その後、世界はあのような大戦争からは免れています。しかし、各地で地域紛争があり、それに伴って、莫大な資源の浪費と自然の破壊を見なければならないことは残念なことです。安全保障がいかに大切であるか、二十世紀を振り返えるとき、深く思わざるを得ません。

(二)経済成長と悲惨な公害  
  二十世紀は、成長の世紀でもありました。人類の歴史上、人間の能力や財産を増やそうと人類が自覚的、意識的に取り組んだのは初めてであったでしょうし、また、実際にも、地球の上での人類の存在は極めて大きなものとなりました。  
  成長には良い面もたくさんありましたが、悪い面もありました。  
  その典型例が汚染による環境破壊です。環境破壊は、成長による良い面を帳消しにする程の悪影響を及ぼすのです。  
  一例として、日本の水俣市を中心にして、第二次世界大戦終了のおよそ八年後、今から五十年近く前から起きたと考えられる有機水銀汚染、いわゆる水俣病のケースを紹介いたします。五十年前とは、日本の戦後復興がほぼ終わり、いよいよ経済が高度成長を迎える前夜の時期です。  
  水俣市の化学工場から排水に混じって出された有機水銀は、魚や貝の中に濃縮されて蓄積し、それを日頃食べていた漁民やその家族の方々は脳神経を侵され、多くの方々が狂い死にし、命を奪われなかった方にも深刻な後遺症を残しました。さらに、胎児の脳をも侵し、多数の脳性マヒ症状の子供が生まれました。確実に水俣病として認められた患者が二千二百人以上、水俣病類似の症状があって、医療の対象とされた者が約一万四千人を数えるなど、膨大な被害者を生み、その症状も深刻で、希に見る悲惨な公害でした。この汚染は、原因究明に手間取り、この工場からの排水が水俣病の原因であると政府が認めたのは、最初の患者と言われる五十七人の発症から数えて十五年も後のことでした。原因会社の対策も後手後手に回り、結果として、少なくとも十五年間もの長きにわたって新たな被害を起こし続けました。有害物質の排出が根絶されたのは、今から三十二年前です。随分昔だ、と思われるかもしれませんが、汚染で被害を受けた方々への補償の問題が最終的に決着したのは、つい四年程前のことで、半世紀もの長い間、日本にとって深刻な社会問題となっていました。  
  私は、この公害事件が倫理的にも許すべからざるものだと思っておりますが、さらに、経済的な意味でも、反経済的であったと評価しています。  
  私は、大蔵大臣をつとめていた頃、日本の対外援助政策の観点から、開発に伴う環境対策の意義についても、関心を有していました。そこで、当時の環境庁の諸君に提案し、この水俣病のケースなど日本の高度経済成長の渦中で起きた公害の、費用対効果分析をしてもらいました。  
  その結果、水俣病の原因企業は、公害対策を避けて得た利益の百倍以上もの多額の損失を企業自身に生じさせたとの結論になりました。現在、この企業は患者補償のために支払いを行っていますし、また、補償一時金を借入して支払った借金の返済を行っていますが、年々の損失額は六十数億円(約六千万ドル)にも達し、この債務からは向こう百年間は逃れられない見通しです。  
  過去の我が国では、成長によってのみこそ経済的な福祉が高まるものと確信し、経済の妨げになりそうなことは敬遠しがちでした。その結果、経済を重視するがゆえに経済を損なう、というパラドックスを、水俣だけでなく各所で見ることができます。我が国の国立環境研究所では、工場からの硫黄酸化物の削減対策が経済成長にどのような影響を与えたかをマクロ経済モデルで調べてみました。硫黄酸化物に対する我が国の果断な対策は、喘息患者発生などを許したもののかなり早い段階で排出量を劇的に削減し、世界では成功した政策事例であると評価されています。しかしそれでも、国立環境研究所の研究では、もう少し早い時期に対策を強化し始めていた方が、マクロ経済の成長のためにはなお良かった、という結論となりました。  
  硫黄酸化物による汚染は今なお世界各地で見られます。酸性雨の原因となり、地球の汚染の観点からも問題です。このようなどこでも起こる可能性のある公害、そしてその対策には多額の経費が掛かるような大規模な公害の場合でも、環境対策は決して反経済的ではないのです。  
  私は、我が国の経済成長の経験を踏まえ、率直に申し上げたいと存じますが、環境に配慮しないような経済は、長い目では結局、経済的でないのであります。

三.二十一世紀へのビジョン
  (一)自然と共生する循環型の経済社会づくり  
  二十一世紀に人類が直面する諸課題への、一つの確かな処方箋は、自然生態系の中の健全な一部として人間活動が営まれる社会を築き上げることであると考えます。今日のように、人類が地球の富に依存する寄生虫のようになって営む暮らしや経済は、長続きするものではありません。限られた地球の富を減らさないよう、よく考えて使っていく必要があります。  
  我が国では、このような新しい経済社会に向けた取組が既に始まっています。こうした取組の足取りと現状を、少し御紹介したいと存じます。
  第二次世界大戦後十年経った頃から始まった高度経済成長期に、今日の環境行政は芽吹きました。我が国では、先程申し上げました水俣病やその他の水質汚濁、硫黄酸化物による大気汚染がもたらす喘息などの、いわゆる産業公害が、経済の高度成長に伴って全国各地で発生し、深刻化していきました。経済成長が十年程続いた後の一九六五年には、公害対策基本法を制定し、この法律の下、公害という新しい事象への取組を強化し始めました。一九七〇年には、十四本もの公害対策関係法律を制定・改正しましたし、翌七一年には、公害対策を専門に行わせるため、環境庁という役所を総理府に設けました。
  この時に整備された法制度や行政組織により、一九八〇年代の初めには、さしもの産業公害も相当に改善されました。しかし、その頃から、微量の化学物質による汚染、多量の廃棄物の発生、さらには地球全体の環境破壊、といった新たな問題が顕在化してきました。公害対策基本法や環境庁に象徴される取組は、公害という、一つの限られた切り口からの対処でしかなかったのです。  
  工場からの公害を防ぐことに集中していた我が国の政策が大きな変身を始めたのは、一九九二年にリオデジャネイロで開かれた地球サミットがきっかけでした。  
  このサミットでは、持続可能な開発というアイディアが、世界共通の政策指針となりました。私なりに言い換えてみますと、このアイディアは、経済の発展によって、公害を生まないように配慮する、といった消極的な発想ではなくて、環境が健全な経済の基盤であることを明確に認識し、環境が経済にもたらす恵みを末永く人類が受け取ることができるよう、積極的に経済の内容を変えていこう、と訴えたものだと考えています。
  地球サミットが終わった後、我が国は、それまでの環境行政の基本であった公害対策基本法を廃止し、新たに環境基本法を九三年の国会で制定しました。私は、この法案の作成作業を、与党、自由民主党の環境基本問題調査会の会長として指揮いたしました。
  この法律の要点の一つは、日本人の暮らしは地球の環境が健全であってこそ営めるものだということを認識し、環境を、公害をもたらすような悪い状態にすることなく管理することはもちろん、環境が様々な便益を継続的に人類に恵んでくれるよう、より優れた状態にそれを維持していくことを国の政策の目的として位置づけることにあります。  
  その後、今日まで、環境行政はもちろん、産業行政を始めとした各種政策が、この基本法の狙いを具体化するべく、改善され続けています。  
  一例を挙げますと、私が総理大臣をつとめていた際、私は、日本社会を未来に対応できる新しい姿に変えるべきと考え、まず、中央省庁の大幅なリストラクチャリングの方針を決定いたしました。二十数省庁に及んだ中央省庁は、十二省にまで整理統合することにしましたが、その中で、それまで総理大臣が指揮監督する大きな総理府の一部門として置かれた環境庁を、他の十一省と並ぶ一つの独立した省とすることに決めました。責任を重くしただけでなく、その所管事務の範囲も拡大しました。決して「お添え物」とは言われない、新しい環境省が来年一月に発足します。  
  地球の自然と人類とが共に生きることができるような新しい形の社会は、今まさに姿を現しつつあります。
  私は、環境に配慮しない経済は、実は経済的でないと先程申し上げましたが、今私は、更に一歩進めて、環境に配慮した経済こそ本当の経済であると申し上げたいと存じます。  
  その実現のための武器は着々と準備されつつあります。  
  我が国にとっては、世界的に競争力の強い、低燃費・低公害の自動車などを始めとした製造技術がそれでありますし、インドであれば、ゼロの発見以来、人類の歴史を通じてインドが優位を持つ、情報技術も重要な武器です。最近の生物科学、生命化学の進展も大きな影響力を持つでしょう。  
  しかし、技術の自然な発展をただ座して待っているわけにはまいりません。我が国でも、環境保全型の技術が普及する上では、様々な障害を克服しなければなりませんでしたし、これからもそうでしょう。  
  政策が必要です。ここに御列席の皆様の知恵と勇気が求められています。

  (二)二十一世紀型の持続可能なエネルギー需給システム  
  皆様、例えば、知恵と勇気、そしてたゆまぬ努力が求められている政策分野にエネルギーがあります。
  二十一世紀におけるエネルギー需給システムの基本は、エネルギー需要をなるべく抑えていくような社会経済システムを一刻も早く実現し、供給面でも新エネルギー技術開発をはじめとして非化石エネルギーの導入に、最大限の努力を図り、化石エネルギーについても、供給安定性、経済性に配慮しつつ環境負荷の小さい供給構造へのシフトを図っていくことです。
  そして同時に、エネルギーセキュリティの問題をも強く認識することです。二度にわたる石油危機の経緯を見るまでもなく、エネルギー問題には、国際政治経済情勢の強い影響を受けてきているという現実があります。第一次石油危機で経験したような事態が再び発生する可能性は否定できないのです。  
  需給動向をみると、今後、アジアを中心としてエネルギー需要が急増していく見込みの中で、供給面では、エネルギー資源の限界、そして、太陽光発電、風力発電などの新エネルギーの開発・導入はなかなか思うようには進んでいないという現実があります。  
  こうした状況の中で、エネルギーを中長期的に安定的に供給していくためには、何としてでも石油に替わる新たなエネルギーを見つけださねばなりません。つまり、我々人類は、二十一世紀という時間軸でエネルギー供給システムをとらえれば、革新的な技術開発などにより、必ず夢の新エネルギーを現実のものにしていかねばならないという課題を負っているのです。   そして同時に、忘れてならないのは、夢の新エネルギーが実現するまでは、安定的な供給確保に向けて、常に地道・着実に対応していかねばならないということです。夢の新エネルギーの実現に向けた絶え間ない努力とともに、石油資源などの供給源の多様化・分散化、自主開発、原子力・新エネルギー開発利用の推進など各種の方策を講じ、さらには、社会全体としての問題意識の共有などを通じ、現実を見据えたリスク管理に努めていくことが基本であろうと思っております。  
  さて、そうした中で、当面の最大の課題である原子力の問題に一言触れたいと思います。皆様ご承知のとおり、我が国は、広島、長崎にみられるように人類として唯一の被爆国という立場にあります。それだけに、我が国にとっては、原子力の平和利用は、たいへん大切な問題であります。エネルギー源としての原子力の有用性、地球環境問題への対応をも踏まえ、我が国は、安全の確保を大前提に原子力の平和利用に努めてきました。これまで、何回かの挫折を経験しながら努力して参りましたが、つい最近も、発電所そのものの事故ではないものの、国民の信頼を大きく揺るがした残念な出来事がありました。原子力の担うべき役割が現実としては大きい中、今後、原子力の増設を進めていくには、国民の安全を大前提として、国民の理解を得られるようにしていかねばなりませんが、それは、それほど簡単なことではありません。これに対する解は、出ていないというのが残念ではありますが現実なのです。
  この事例に見るとおり、二十一世紀型の持続可能なエネルギー需給システムは、一朝一夕にできるものではありません。問題の難しさ、原子力利用に伴う危険を決して軽視することなく、真っ正面からこれと向き合い、人類の英知を集め、真剣かつ冷静に、少しずつでも着実に成果を上げていくよう努力を積み重ねることが、唯一の解決の道であると思います。

(三)地球総参加で地球益の確保を
  皆様、今まさに、人類としての知恵の結集が求められています。これまで一国の政治家にとって、それぞれの国の国益を如何にして最大化するかということが最重要の課題でした。もちろん、このことは今後とも大事であることは変わりません。しかし、今日の環境・エネルギー問題を考えるとき、これからは「地球益」の確保をより強く政治の中心課題としなければならない時代に入っていると考えます。
  例えば、私が総理大臣をいたしておりました一九九七年に、京都議定書が採択され、その発効に向けた交渉が続けられています。しかしながら、温暖化対策には各国の目先の経済的な利害が絡むこともあり、必ずしも円滑に交渉が進んでいるとは言い難い状況にあります。  
  一方で、温暖化の影響は先進国、発展途上国を問わず広く地球上に及ぶことが予測されています、いやむしろ現実には既に顕れつつあります。例えば、我が国の国立環境研究所の試算によると、有効な対策が講じられなかった場合には、小麦やトウモロコシの世界的産地となっている中国やインドなどの国で二十一世紀末までに大幅な生産量の低下が見込まれています。特にインドにおいては世界の小麦の一割弱を生産していますが、地球温暖化の影響により冬小麦の五十五%の減少が予測されています。これに加えて気候の状況が不安定となり、大規模な干ばつや洪水、巨大な台風やサイクロンといった自然災害の多発も懸念されています。
  もちろん食料生産に限っていえば温暖化の影響により利益を得る地域も全くないとは言えません。しかし、海面の上昇など地球温暖化の影響を全体として見た場合、地球全体のダメージは量りしれません。そして、現代においてはグローバル化が進み、世界の経済や社会は相互にますます密接に結びつきあってきています。食料生産の減少や不安定化などは過去の文明の衰退の大きな原因となってきたことを考えると、これは地球上における全ての国々の問題として捉えなければなりません。
  その意味で地球温暖化はまさに世界総参加による地球益の確保ができるかどうかの試金石となっていると考えます。  
  もとより世界総参加と言う場合、誰かが一方的に不利益を被ったり利益を得たりするのでは協力は成り立ちません。今後重要な点は発展途上国も先進国もこれまでの一方的な経済成長路線から持続可能な発展へ路線を切り替えていくことが中長期的な経済発展の基盤となっていくとの自覚のもとに、それぞれが努力をしつつ他を助けていくことが必要です。
  本年の一一月には京都議定書の発効に向けて、オランダのハーグで第六回締約国会議が開催されます。我が国としても世界総参加による地球益の確保の観点からその成功に向け全力を尽くしたいと考えています。
  これで、私の基調講演は終わりとさせて頂きます。私のお話に、ご列席の皆様方のご検討に役立つ点がいささかなりともございましたら、誠に光栄に存じます。講演を終えるに際し、主催者のタタ・エネルギー研究所の皆様に、厚く御礼を申し上げますとともに、ご列席の皆様のますますのご活躍と本会議の成功を祈らせていただきます。ご静聴ありがとうございました。