「母とユニセフ 」
2000年1月5日

 母が初めて海外旅行に出かけたのは、確か昭和36年(1961年)の春であったと思います。日本ユニセフ協会参与としての一人旅、先進国、途上国の双方を見たかったようで、結構その頃としては長期間の旅、まわった国の数も多かったようです。  

 パリではアルジェリアの叛乱に遭遇、戒厳令の下、一歩もホテルを出ることができぬまま、次の目的地に出発させられるなど、なかなか面白い体験もしたようですが、送り出した父も各国から届く母の手紙を本当に楽しみにしており、当時、紡績会社のサラリーマンとして長野県に勤務していた私を、何かと言っては、週末、東京に呼び出して、母の手紙を読ませてくれました。随分真剣に視察しているなと感じたことを記憶しております。  

 父の没後、私が政界に転じ、初めて当選してしばらくして、「私も自分のやりたい仕事をする」と宣言した母は、はじめは理事として、そのうちに専務理事として日本ユニセフ協会の仕事にのめり込んで行きました。 当時の古垣会長や、ブリヂストンの石橋さんのお勧めもあったのでしょう。  

 それ以降の母の生活は、若手の衆議院議員だった私よりもはるかに多忙になりました。文字通り日本国中を駆け巡り、ユニセフの仕事の大切さを多くの方々に知っていただくべく働きかけ、決して本人は好きではなかった講演もこなし、募金のために街頭にも立ちました。  

 海外に出張することも増えました。 「皆さんの募金のおかげでこうして仕事ができる」、これが口癖だった母の航空機のチケットはいつも一番安いもの、疲労を心配する家族も、この母の姿勢に口をはさむことはできませんでした。  

 狸穴にあった当時の日本ユニセフ協会の事務所への往復は、いつも大きなバッグをかかえて徒歩、自分の母ながら、皆さんの尊い募金は一銭たりとも無駄にはしないという、その心に対し、「凄い!」という言葉以外に形容詞が見つかりませんでした。  

 予算編成の折にも、「一緒に行ってよ」と言われ、大蔵省への陳情に供をしますと、主計局の担当次長のところから主計官、主査の一人ひとりに深々と頭を下げ、拠出金の確保に必死で努力している母の姿に、本当に頭の下がる思いでした。  

 その母が何時の頃からか、「もう私一人の力では限界。議員連盟を作って応援してもらえないかな?」と言い出し、内心、疲れているな、無理もない、と私も思い、伊東正義さんや田邊誠さんなど、党派にかかわりなくユニセフの活動に関心を持ってくださりそうな方々にお願いし、ようやく議員連盟が発足することになったとき、母は本当に喜んでおりました。 少しは親孝行ができたと思っておりましたが、その発会式の席上、「これで皆様方にバトンをお渡しいたします。ユニセフをどうぞよろしくお願いいたします」と、しっかりした声で挨拶をした母が、その直後、倒れるとだれが考えたでしょうか? それ以来、長い闘病生活の後、昨暮、母はその人生を終わりました。  

 父との結婚生活より長い人生を、母は日本ユニセフ協会とともに過ごしました。何足、靴を履きつぶしたのだろう? 途上国の子どもたちと、行く先々でどんな思いを共有したのだろう? 随分思いを巡らしても、私には想像のおよばない部分がなお残ります。  

 ネパールの山奥の小さな村で、ユニセフから贈られた医薬品しかない診療所に行ったことがあります。母にその話をしたところ、「そんなところがいっぱいあるのよ。ユニセフ本部も私たちも一生懸命頑張っているんだけれど、まだまだ足りないのよ。やりたいことがたくさんあるんだけれど」と、つぶやいた声が、いま、耳元で聞こえてくるようです。  

 いつの間にか、日本ユニセフ協会の事務所は母の通い慣れた狸穴から引っ越され、随分立派になりました。 募金も、母が必死で飛び回っていた頃とは比較にならないぐらい増えているようです。 それだけ多くの方々が、世界中の恵まれない子どもたちに目を向けてくださるようになったのは、本当にありがたいこと、その多くの方々の善意が本当に有効に活用していただけるよう、ユニセフの、日本ユニセフ協会のいっそうのご活躍を心から、母の魂も祈ってくれているであろう、私はそう信じております。



(写真キャプション)
1970年に大阪で開かれた万国博覧会のために来日したダニー・ケイ・ユニセフ親善大使を迎える橋本正(まさ)日本ユニセフ協会専務理事と古垣鐡郎同協会会長。