「ミャンマー訪問を終えて」
1999年12月16日

 11月30日から12月3日まで、日本財団の皆さんとともに、ミャンマーを訪問して来ました。昭和45,6年に第2次世界大戦中亡くなった方々の遺骨収集で訪問して以来 、久しぶりのミャンマー訪問です。


大東亜戦争陣歿英霊之碑/撮影: 橋本 龍太郎
 軍政がひかれている事、マスコミの報道などから相当重苦しい印象を持っての旅でしたが、行って見ると予想に反し、街の中も、人々の表情も明るく、むしろネ・ウィン時代のミャンマーのほうが遥かに暗く寒々とした想い出であるのに比べ、文字通り明るいイメージを持って帰国しました。    

 今ミャンマーは、欧米諸国から、軍事クーデターによって生まれた政権として、厳しい経済制裁の対象となっています。日本も軍政に対しては厳しい批判を行って来ました。私自身も総理在任中、ミャンマーのアセアン加盟に際し、「アセアン加盟が軍事政権の免罪符としてはならない」と申し入れた事があります。  

 その上で、軍事政権の首脳達と率直に議論し、外部世界の向ける視線の厳しさを少しでも理解させる努力をする事が今回の目的でした。  


 ミャンマー側の歓迎も想像を超えるものでした。国賓に準ずる待遇は、其のままミャンマーが置かれている立場に苦しみながら、何とか自分たちの言い分も聞いて欲しいと言う気持ちの表われだろうと思います。  

 タンシェ首相以下との会談の中で、ミャンマー側からは、農業関係で化学肥料、医療・教育分野での草の根協力、エネルギーなどについての要望がありました。  

 私の方からは、大学閉鎖の解除、軍と警察の役割分担の見なおし、憲法改正作業のスピードアップ、経済政策への注文など、多少内政干渉がましい事まで議論して来ました。こうした話は一度で結論の出る話では有りませんが、対話のベースは作れたと思います。驚いたのは、大学の相当部分が既に授業を再開していた事で、実際に見に行ったヤンゴン大学の校舎は多くの学生の姿で賑わっていました。何故、日本のマスコミはこう言うニュースを知らせてくれないんだろうと感じたのは私だけではありませんでした。  


 

 ミャンマーは本質的に、非常に親日的な国です。第2次世界大戦中、日本が戦場としてしまった国の中で、もっとも親日的な国と言って間違い無いと思います。それだけに出来るだけの協力をしてあげたい、その為にも民主化の方向をハッキリさせて欲しい、それが願いです。  

 ご自慢の工業団地の中にある製靴工場、縫製工場、電線製造工場なども視察してきました。一見して、圧倒的に豊富な若い女性の労働力に依存している事が分ります。  

 以前この国を訪れた時には、ハンセン病患者が目立ちました。30年近く、日本財団(前の船舶振興会)がハンセン病の治療薬を供給し続けてくれている御かげで10,000人中2・5人まで患者数は減少しております。  


 ミャンマーは、長い間、人口の過半数をこえるビルマ族と多くの少数民族との対立でも問題を抱えていました。今、カレン族との間を除き、平和な関係を築いています。ようやく少数民族地域における麻薬問題(ヘロイン 、阿片用のケシの栽培)を解決できるチャンスが生まれつつあります。この地域では覚醒剤が密造されていると言う疑いもあります。これをなくす為には国際的な協力が必要です 。日本は既にNGOの皆さんの手によって、ケシに代る農作物として、蕎麦の栽培を広めつつありますが、より積極的な協力を、国としても考えなければなりません。  

 出発前、「ミャンマーに行くのにアウンサン・スーチィ女史に逢わないのは怪しからん」と言う御叱りを彼方此方から戴きました 。しかし、軍事政権関係者と本気で議論しようと考える時、それはマイナスだと私は判断しました。経済政策の議論の中で、外国人顧問の採用まで議論してきた今回の訪問、今後に少しでも役に立ってくれればと願っております。