22日出発、マニラで行われた第13回PECC総会でのスピーチを終わり、24日夜帰国しました。
PECC総会でのスピーチは別に報告しますが、この機会にフィリピンのエストラーダ大統領と会談、シアゾン外相はじめ、多くの友人と再会する事ができました。ホーク元豪首相、ボルジャー前ニュージーランド首相、ラモス前フィリピン大統領、みな元気で夫々の役割を果たしていられます。
エストラーダ大統領との会談で感じたことは、今インドネシアで起きている事態は自分たちも辿った道(マルコス政権が倒れてから今日までを意味する)、東チモールの独立も良い事、その間出来るだけの協力は惜しまないという、淡々としたフィリピンの姿勢を知ることが出来だことです。
彼は今回のPECC総会の演説の中で、東アジアの政治や安全保障問題を協議する新たなフォーラムの設置を提唱しました。フィリピンとして、ASEAN地域フォーラムなど既存の組織に不満があるようですが、果たしてASEAN全体の構想となるのか、注意深く見守る必要があると思いました。
他にも様々な議題が出ましたが、日本との関係では基本的に大きな問題はありません。
24日、マニラから自動車で2時間ほど離れたカリラヤに設けられている戦没者墓苑に詣でて来ました。
この墓苑は第二次世界大戦中、フィリピンで亡くなった全ての方々の霊を慰めるため、激戦地の一つだったバレテ峠にほど近いこの地を選び、日本政府が建立したものです。
用地の選定から係ってきた渡しも久しぶりに訪れましたが、現地大使館や在留邦人の力で立派に管理されている姿に、本当にホッとしました。しかし、戦没50周年までは多数訪れた日本からの慰霊巡礼団が、このところめっきり少なくなったと聞き、淋しい思いもしております。
日本では殆ど忘れられている第二次世界大戦、しかし多くの犠牲者を出したこの国では、尚過去の事にはなっておりません。
お世話してくださっている在留邦人の代表から、フィリピン全土には100を超える慰霊碑が日本側関係者によって建立されているが、きちんと管理されているものは指で数えられる位と聞き、何とも遣れ切れない思いでした。ご遺族をはじめ関係者の高齢化が、大きな原因とは思いますが、自治体が建立したものもご多分にもれないと聞かされ、如何すれば良いのか思案にくれながらの帰国でした。
カリラヤの陰鬱な天候のもと、戦後、数々の悲劇の思い出の残るモンテンルパから移転された小さな慰霊碑が、淋しそうにポツンと私を迎えてくれました。
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