ヨハネスブルグサミットを終えて
 

 8月28日から9月4日まで、ヨハネスブルグで開かれた環境サミットに参加し、新しい友人を作り、古い友人とも懐かしい再会を喜びながら帰国しました。
南アでは、今が冬、しかもヨハネスブルグは高度1,400メートル以上の高地、朝夕は結構涼しくなりますが、昼間は20度くらいまで温度が上がり、しかも内陸部のことゆえ湿度が少なく気持ちの良い毎日でした。問題は治安の悪いこと、最後まで心配していましたが、幸い日本人については、政府関係者もNGOの皆さんも無事で、ホッとしました。
 スィス代表団の宿泊したホテルは武装強盗に襲われ、その他にも幾つかの事件があったようで、日本人に何もなかったのはツイテイタとしか言いようがありません。宿舎が有刺鉄線と高圧電流を通した電線に囲まれ、銃を手にしたガードに警備されるというのは私にとっても久し振りの雰囲気の国際会議でした。
私の役回りは28日午後のアジア太平洋環境開発フォーラム(APFED)サイドイベントにおけるスピーチ、「APFEDの意義と今後の役割」から始まり、29日午前中のジャパンパビリオンにおける「日本の公害経験と克服への道」、午後のグローブジャパン会長、第三回世界水フォーラム国内運営委員会会長として「水との共存」のスピーチ。31日、南アフリカ研究所と日本国際問題研究所が共催して開いたセミナー、「アフリカとガヴァナンス」における基調講演。3日、第3回世界水フォーラムプログラム発表式における基調講演、と結構緊張の連続する毎日でした。
 終わった今、振り返ると色々な思いの交錯する会議だったなとしみじみ感じます。
10年前、いわゆるリオサミット(環境サミット)が華やかに開かれた時、世界中に何かとても新しいことが始まったという幻想を振りまきました。たくさんの宣言、協定、文書が生まれました。しかしその後の京都会議では既に各国のエゴが生まれ、合意形成に随分苦労しなければなりませんでした。
アメリカ大統領不参加という状況下で開かれた会議ですが、日本は政府関係者もNGOも協力して、この会議が意味あるものになるように、皆力を合わせてくれたと思っています。その中から、「貧困」と言うキーワードが導き出され、その解消のためにも「安全な水、衛生的な水」が強く求められました。来年3月京都、滋賀、大阪の「琵琶湖、淀川水系」を舞台として開催される第三回世界水フォーラムの準備委員会会長として一層の責任を痛感するとともに、このフォーラムにかかる期待の大きさに武者震いをしそうな感じです。
各所での発言の原稿はそのままを掲載させていただくこととし、今回のヨハネスブルグ・サミットの報告と致します。