この1ヶ月、混乱の報告
2000年12月11日

 11月17日、サウディアラビアのリヤドで産油国と消費国との対話プログラムが開かれ、私は日本を代表して主催国サウディアラビア、オランダとともに共同議長を勤めました。このところ原油価格の高騰が世界的に大問題となっているだけでなく、同じ時期、オランダのハーグで開催されている地球温暖化防止条約締約国会議(コップ6)の論議にも大きな影響を与える重要な会議、コップ6にも参加することになっていたので、私の責任は大きいと考えて出席しました。

 野党から内閣不信任案提出が噂され、与党の中からも同調の動きのある中での出張、しかし国民の利益を考えれば欠席という選択肢はないと判断したのです。

 空港には旧知のナイミ石油大臣が出迎えてくれ、アブダラー皇太子、第2副首相のスルタン殿下、サルマン殿下などサウディ側要人との会談もスムーズに運びました。

 コップ6に向けて、途上国のリーダーとしての中国の劉 江国家発展計画委員会副主任、日本にたいして批判的なEU代表としてのオランダのレッビンク副首相兼経済大臣との会談も有意義でした。

 会議の最初、私は「高すぎる原油価格も安すぎる原油価格も、乱高下は国際経済にマイナス。一定のバンドの範囲に収めることを考えるべき」と主張しました。

 具体的にはスルタン第2副首相との会談で 、1バレル20から25ドルくらいを私が提起したのにたいし、スルタン殿下は「26,27、或いは28ドル」と私の提起した範囲には賛成しなかったものの、考え方には同感の意を表し、共同して各国を説得しようとした時、不信任案が上程される事になり、帰国命令が届きました。

 リヤドからフランクフルト、フランクフルトから成田、二晩機中泊を続け、本会議に出席しましたが、本当にむなしい思いでした。

 国際会議で自国の立場を主張しなければならないとき、国内政局が首脳始め出席する代表の足を引っ張るような事は避けなければなりません。

 少なくともコップ6は、3年前、私が総理を勤めていた時、京都で開かれたコップ3でまとめられた京都議定書を批准できるかどうかが懸かっている大切な会議でした。

 私もふくめ、この会議に参加、政府の立場を支援して日米欧の間に妥協点を見出そうとしていた日本の超党派の国会議員は、この不信任案上程で足止め、応援体制のない中、政府代表の懸命の努力も空しく、結局この会議は成功しませんでした。

 私は不信任案に反対、不信任案はもちろん否決されましたが、この不信任案を巡る混乱は日本の政治に大きな傷を残し、今後の不安定要因となっています。世紀末の今年、混乱を次の世紀に持ち越したくありませんが、自民党自体、方向を模索している状況では国民の利益とは?と言う問いかけに幾つもの答えが出てきてしまうのも仕方がないのかもしれません。しかし、国民の利益に反する行動だったと私は思っています。  

 臨時国会終了後の内閣改造で、私は沖縄開発庁長官と兼ねて、行政改革担当の特命相をお引き受けすることになりました。

 2001年1月6日から中央省庁は、私が総理として御約束した1府12省体制に移行します。しかし行政改革はこれからまだまだ続きます。この行革に魂を入れなければなりません。

 その1月6日から、北海道開発庁、沖縄開発庁も廃止されますが、新たに私が沖縄・北方対策担当となります。

 開発庁が廃止されたため、沖縄に対し、配慮を無くしてはなりません。基地問題ばかりでなく、様々な課題を残している沖縄問題、北方領土、新しい世紀に私達は課題をのこしてしまいました。

 様々な報道が飛び交う中で入閣した事にたいし、いろいろ御評価を受けました。不信任案に対する態度にもご批判をいただいています。不信任案についての考え方は先ほど述べた通りです。

 行政改革にしても沖縄問題にしても、私が手をつけてから、多くの方の努力にもかかわらず、中々進みません。私がお引き受けする事で、一つでも前進する課題があればと願いながら、今、毎日を過ごしております。

 今世紀も本当に後僅かとなりました。どうか御風邪など召しませぬように、新しい年が少しでも良い年となりますようお祈りし、より良い年になるよう全力を尽くすことを誓い 、久し振りの報告とさせていただきます。