救助された人々には「箝口令(かんこうれい)」がしかれ、対馬丸が撃沈された事実を話すことを禁じられました。犠牲者や生存者に関する詳細な調査も行われず、沖縄に残された家族に正しい情報が伝わることはありませんでした。また対馬丸事件の後、10月10日には那覇を中心に大空襲があり、翌年の地上戦では県民の4人に1人が犠牲になるなど、さらなる戦争被害を被ったため、対馬丸撃沈事件が知られるようになったのは戦後しばらく経ってからでした。大人が起こした戦争の為に理不尽にも幼い子どもたちがその犠牲になったことから、戦後「“学童疎開船”対馬丸の悲劇」として語られるようになっていきました。 (ホームページ抜粋)
オランダ館を視察するオランダのウィレム・アレクサンダー皇太子夫妻に随行する橋本