日本・アラブ対話フォーラム第1回会合を終えて
−東京・ホテルニューオータニにて−
会議風景 日本側メンバー
共同記者会見
(左から ハーリド・アル・ゴザイビ商業工業大臣(サウジアラビア)・
橋本・イスマイ―ル・セラゲッディーン・アレキサンドリア図書館長(エジプト)

 アラブ諸国との間に、もっと公式ではなく、自由に意見の交わせる舞台が欲しい、そんなことを考え始めたのはずいぶん前の事。最初に考えたのはアラブというより中東の産油国との間に、石油以外の関係を築くことが出来ないか?という思いだった。
 1,980年代の一時期、サウディアラビアの癌センター建設のフィジビリティスタディを引き受け飛び回ったのもそんな思いからだったが、これはサウディ側の状況が変化し、結果的には不発に終わった。しかしそのため東京の国立癌センターから市川さん、末舛さんといった錚々たる先生方に現地に同行していただき、現地の医師たちに何例かの手術までお見せいただいたことは、後に残るプロジェクトだったと今でも思う。
 ことにイスラム教国での医療のあり方の基礎を学んだことは、後に湾岸危機から湾岸戦争にかけて、大蔵大臣として内閣の中にいた私にとって、医療協力などを議論する際に本当に役に立った。
 ここ暫くは、"水"という側面からの接触が多かったが、私が期待するほど日本とアラブ世界の対話の機会が増えているとは思えない。
 サダム・フセインのイラクが大量破壊兵器隠匿を疑われ、国際社会を二分するような激しい対立の中、米英両国とイラクの間に戦端が開かれるにいたっても、日本から独自のルートを生かしたアラブとのあいだでの行動は見えてこなかった。  こうした中で、小泉総理がエジプト、サウディ両国を訪問されることになり、その際両国に提案していただいた構想が、今回の日本・アラブ対話フォーラムとなった。
 日本側代表を私が務めることがひとつの前提で、「本当に橋本が日本の首席代表をするのか?」となかなか本気にしてくれなかったエジプト、サウディアラビア両国のメンバーが決定するまでには多少の時間が必要だったが、おかげさまで?3,4,5日に掛けて東京で開催した会合は大変な成功だったと思っている。
 第一回は準備会合くらいのつもりで臨んだものが、最初から本気の議論が出来たのは望外の幸せ、第二回目以降継続することを前提に、次回のホストを両国が争い始めたときはうれしい悲鳴を上げた。おかげで第三回の開催地まで決まり、今後、新しいメンバーをどのように選んでゆくかなどの問題に入ってゆくだろう。
 アラブ世界にはさまざまな動きがあり、国情もそれぞれに違いがある。新生イラクを如何に作り上げてゆくかについてもその感情は一様ではない。その中から穏健派のアラブ諸国と如何に友情を築き上げるかは日本自身の将来のためにももちろん大切だが、国際社会の中で日本がその責任を果たしてゆくためにも大切なこと。
 サウディアラビアもエジプトも、私のこの思いを評価してくれ、サウディはサウド外相が代表、エジプトはセラゲルディン・アレキサンドリア図書館長が代表となった。実際にはサウド外相は参加されず、ゴザイビ企画大臣が代理されたが閣僚3人が指名されているサウディアラビア代表団は私にはもったいないほどのメンバー。エジプトの代表のセラゲルディン氏はムバラク大統領に極めて近く、アレキサンドリア図書館長を務める学者、私自身も世界水会議、世界水フォーラムで一緒に仕事をしたこともある人。
 それぞれのメンバーは各国政府から推薦されているが、ここでの議論はあくまでも非公式の立場。公式にはしにくい話もここなら外に漏れる心配はない。
 政治家としてのひとつの夢が始まった。結構骨も折れるだろうが、この国の足りない場所のひとつを補う、いくばくかの役に立てることを念じている。