ご挨拶


■父について

まず、皆様に一言お詫びを申し上げます。本来であれば、生前から父にご厚情をいただいた皆様方にお見送りをいただくべきですがが、通夜、告別式等を身内のみで執り行わせていただくこととなりました。42年間にわたり「公人」としての生活を送り、国会議員を引退しても引き続き外交や環境など精力的に活動していた父でした。せめて最期だけでも「私人」として、家族のみの時間を過ごさせてあげたいという私たちのわがままを、お許しいただければ幸いです。

 

入院一週間前に東京で行われた「日本・アラブ対話フォーラム」にて日本側座長を務めた橋本。

6月4日夜の入院から、四週間の闘病生活でした。その間、もちろん入院先の医師や看護師をはじめとするスタッフの方々の昼夜を問わないご努力の成果、あるいは回復をお祈りいただいた皆様のお力でもありますが、父は何度か峠を迎え、乗り越えました。その生きる「意志」の驚異的な強さに、むしろ見守る私たちが励まされた思いがします。入院時には、「腹が痛い」と言いながら、翌日に予定されていた砂漠化に関する講演の心配をしていました。それが、私と父との最後の会話となりました。

 

国連「水と衛生に関する諮問委員会」議長として3月末にメキシコで開催された「第4回世界水フォーラム」閣僚会合にて発表した行動計画を手渡す橋本。

私が幼稚園児の頃既に厚生大臣だった父とは、ゆっくりと一緒の時間を過ごすことはなかなかなく、正直言ってとっつき難い父親でした。父親の膝の上にいた覚えはなく、東京に向かう父親の背中をいつも見送っていたような気がします。一度だけ、総社の自宅の庭でキャッチボールしたことが、子どもの頃のかけがえのない思い出です。

 

北京・メキシコシティーにて地元の剣道愛好家と練習をする橋本。

そんな私に対して、父が自らの家族観について直接に私にメッセージを伝えたのは、私の結婚披露宴の最後の挨拶の時でした。「岳と過ごした時間は、通常の親子関係と比較すれば非常に短いものだったが、私たち夫婦は限られた時間の中で一生懸命にいい家庭を作ろうと子供たちのために努力してきたことを、岳もわかってくれていると信じている」。自分が新しい人生のパートナーを迎え入れる日に言われたその言葉は、私たち夫婦のあり方や子供たちの育て方に強く影響し、時代は変わっても、家庭を大切にしていくという基本的な姿勢を私も継承しようと努めています。そのように育ててもらったことに対して、感謝の気持ちで胸が一杯です。

 

本年春の園遊会当日が橋本龍太郎・久美子の結婚40周年記念日。虎ノ門事務所にて記念撮影。

進学や就職、結婚についても、私が決めたことをいつも賛成してくれた父でしたが、ひとつだけ大反対をされたことは、昨年の立候補でした。選挙区の倉敷市・早島町では、父と同じ席に座ったことは、ありません。「岳をよろしく」と言わず、「素材として悪くないと思う」「それほど馬鹿じゃないと思う」といった独特の表現は、父らしい厳しさと愛情に満ちていると思います。自分の力で有権者の皆様の信頼を勝ちとれ、というメッセージと受け止めています。

 

旅先で唯一息抜きができる時間を過ごす橋本。

病室にて父を見守りながら、悲しみとともに改めて父の懸命な仕事ぶりが思い出されます。特に、ペルー日本大使館での人質事件の間、夜も昼もなく、常に気にかけていたことが印象に残っています。同じ衆議院議員として歩み始めた私がこれからなすべき仕事の重さをしみじみと噛みしめ、涙があふれました。父から、もっともっといろいろなことを学んでおけばよかったということは心 残りですが、遺志を引き継ぎ、自らの道を懸命に歩んで参りたいと思います。

 

 

シラク大統領・エリティン前大統領・ムバラク大統領・クリントン前大統領とともに。

生前の父に対するご厚誼に対し、深く感謝を申し上げます。ありがとうございました。

衆議院議員 橋本岳


7月4日

本日は、虎ノ門の父の事務所に詰め、ご弔問にお越しいただいた多くの方々のご挨拶を受けました。谷垣財務大臣はじめ、各国の駐日大使の方々や財務省、外務省など、生前、父がご縁をいただいた皆様にお会いし、改めて父が多くの方々に支えられていたと実感いたしました。

そんな中、金永三前韓国大統領から直接お電話をいただき、お上手な日本語で、済州島で会談したことなど、父との思い出をお話くださいました。金前大統領のお話を伺っていて、改めて、政治家としての、父の偉大さを再認識いたしました。

これまで、公の場で、父について語ることは控えておりました。父の話をすることは、「七光り」といわれて育った自分としては、複雑な思いがありました。しかし、この機会を逃せば、今後もあまり話さないと思います。父に似て、私にも意地っ張りなところがあるようです。よって、思い切ってこの機会に、皆様に、何回かに分けてぼつぼつと記したいと思います

金前大統領から弔意の連絡を受ける。

父の記(1) 亡き父との最後のドライブ

病院から自宅までの、亡き父の最後の帰宅は、父の横に座り、父と最後の語りあいをしながら、自宅までのドライブを共にしました。父の運転手を長く勤めてくれた鈴木ドライバーが先導し、母の車が二番目を、最後に父と私を乗せた車が一列縦隊で夜の東京の街をドライブしました。車は黒のエスティマで、外から見ると霊柩車には見えません。

「先生はきっとこんなお車に乗られたんじゃないかと思いますよ」との葬儀屋さんのお言葉に、私も家族も共感しました。常に人の目を意識していた父のこと、きっと豪華な、目立つ霊柩車など、まず選ばなかったことでしょう。

○国立国際医療センター

出発は、入院していた国立国際医療センター。祖母が入院していた頃、父が頻繁に見舞いに通っていたことは有名です。その病院にも、もう父が行くことがないと思うと、涙がこぼれてきました。病院では、総長先生から医師・看護師の皆さんから、事務の方、病院のメンテナンスのスタッフの皆さんに至るまで、本当にお世話になりました。改めて感謝申し上げます。

○麹町旧事務所

抜弁天から防衛庁の前を右折、四谷から麹町へ。以前父の事務所があった麹町のビルのまわりを一周。近所にある、父の行き着けの中華料理屋さん前で、あそこのラーメンを何度も食べたよなあと話しかけてあげました。

○党本部、国会議事堂、議員会館、総理官邸

砂防会館の前を通り、平河町の交差点を直進。自民党本部の前を通過し、国会議事堂を反時計周りに一周し、最後に総理官邸の前を通過。このあたりは、父にとっては40年以上も過ごした、庭のような場所なのだろうと感慨もひとしおでした。私にはまだまだ計り知れません。そういえば、先日、第二議員会館の地下の売店のおじさんが「昔はお父さんもよく来てくれてたんだよねえ」と話して下さいました。今は、私が朝食のサンドイッチを買いに立ち寄ります。

○虎ノ門事務所

総理府下を直進、アメリカ大使館前を左折、虎ノ門三丁目を右折して桜田通りを南下。現在の父の事務所の前を通過します。秘書の方も出払っており、明かりは消えていました。麹町からここに移って約一年。もっと長く使うつもりだっただろうと思うと残念でなりません…。

 

○慶應義塾大学三田キャンパス

赤羽橋を直進し、母校である慶大三田キャンパス正門前を通過。本当に愛塾家でした。三田四丁目をを右折して塾中等部の前を通過。ほんのつい一ヶ月前まで、父が元気に剣道の稽古に毎週通っていた三田綱町の剣道場を望みつつ、二の橋に抜けます。このあたりも、父にとっての生まれ育ちの場所に近いはずです。私が小さいころ、よく麻布十番の蕎麦屋さんに連れて行ってもらったことを思い出しました。

 

○帰宅

仙台坂をあがり、無事に、6月4日に救急車で運ばれて以来となる帰宅。土曜日の夜で道も空いていたため、一時間弱のドライブでした。思いついたあちこちを回ったつもりですが、道中、あそこにも…、ここにも…という思いが次々に起こり、いつまでも名残は尽きません。もしできるのであれば、倉敷や総社にも回りたい場所はいくつもあったでしょう。いずれにしても、これが父にとって最後の家路なのです。一つ一つの場所、一つ一つの風景を、父と共有しつつ私の心にも刻もうと努めた、父と心を開き通わせることができた、私にはかけがえのない時間でした。この時の想いは、決して忘れることはないと思います。

 --- 橋本 岳(はしもと がく):gaku@ga9.jp http://www.ga9.jp/
衆議院議員 総務委・経済産業委・イラク支援特委 各委員
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